Up <自分>の現象論 作成: 2023-07-02
更新: 2025-07-02


    「ChatGPT に<自分>は無い」の立場は,その理由をつぎのように述べる:
      「ChatGPT はタダのプログラムだ

    では,タダのプログラムは,なぜ<自分>が無いか?
    この立場は,「タダのプログラム」のことばにつぎの意味を込めていることになる:
      「ChatGPT は決定論た。
       決定論に<自分>は無い」


    虫脳は,決定論に見える。
    即ち,行動が,決定論の脳で済むように見える。
    しかし,その行動は<自分>を現す。
    たとえばつぎのような行動に:
      《進向をじゃまされると,向きを変える》

    人間脳も,ほぼ決定論であるように思える。
    また,老化や障害で決定論になる。
    しかし行動は<自分>を現す。

    ここには,2つの論点がある:
     1. <自分>は,実体ではなく,形式である
     2. 脳が決定論であることは,<自分>が無いことではない

    ここで1の意味は:
    ひとは,行動の説明には<意志>が必要だと思い,そして<意志>を<自分>に所属させる。
    <自分>はこの文脈で使うことばであり,そして<意志>のことばは空回りしている (どこにも効いていない)。


    <自分>は,どんな形式か?
    虫に<自分>を見るとき,「入力に対し応答を出力する」を見ている。
    これは関数である。
    <自分>は,関数に還元されそうである。

    小石を指で押すと動く。
    これは,虫ほどには<自分>が見えてこない。
    その動きには「応答」の感じが無いからである。
    <自分>関数は,出力が「応答」であることが,要点になる。

    翻って,<自分>とは,入力によってこれから外れ,応答を以てこれに再帰する,というものらしい。
    虫には再帰の応答が見え,小石にはこれが見えない。


    では,数の入力に対しそれの2倍の数を返すプログラムも,<自分>を現しているか?
    このプログラムは,2倍の数を返すことを以て,<自分>に再帰するではないか。
    ここで,つぎが要点になる:
      「<現す>は,だれかへの<現す>である」

    2倍のプログラムは,しくみを知っている者には,<自分>を現さない。
    逆に,しくみがわからない者には,<自分>を現すだろう。

    <自分>関数の最も大きいかも知れない条件は,「人間と同様」である。
    人は,人間に似た振る舞いをするものに,<自分>を見る。


    で,ChatGPT はどういうことになる?
    ChatGPT は,<自分>の形式を現す。
    応答の質の高さを以て,いかんなく現す。

    虫に<自分>があるというとき,また,脳が決定論になった人にも<自分>があるというとき,ChatGPT に対しても<自分>があると言うことになる。