Up <国家 - アイヌ差別>連関 作成: 2017-03-14
更新: 2017-03-14


    「アイヌ民族」派の「アイヌ学者」の第一主題は,「アイヌ差別」である。
    この「アイヌ学者」は,「国家/体制 → アイヌ差別」の連関を立てて「アイヌ差別」の主題を立てる者である。

      榎森進「プロローグ」/『アイヌ民族の歴史』, 草風館, 2007.
    p.11.
    ‥‥‥この間日本の社会は、天皇制を軸とした半封建的な軍国主義の社会から主権在民、基本的人権の保障を基本とする民主主義の社会へと大きく変わった。
    だが、それにもかかわらず、アイヌにたいする偏見や差別は、そのありかたでは、幾多の相違が見られるものの、依然として根強く存在していることを右の文章は示している。
    もっとも、この文章のみからすれば、差別は、子ども社会内での特殊な現象と受け取られなくもない。 しかし、子どもの差別観は、子どもじしんの考えのみで形成されるわけではけっしてない。
    むしろ、子どもをとりまく大人たちの日常的な考えや行動に大きな影響を受けつつ、そうしたものをもっともピュアーなかたちで表現したものが子ども社会での一つの現象としての差別観念であると考えられる。 つまり、現実の社会において根強い差別があるからこそ、子どもの社会においてそれがもっともピュアーな、露骨なかたちで表現されたにすぎないのである。
    しかも、こうした偏見や差別は、たんに差別し、差別された人たちの心のもちかたというような個人的次元の問題が主因となって生じたものではない。
    個人のうしろにある社会のありかた、とくに古代以来の各時代ごとの国家の性格や国家と地域・民衆との関係のありかた、とりわけ明治以降の近代国家のありかたと民衆との関係、そのなかでの北海道の性格とアイヌ民族のおかれた社会経済的立場、およびアイヌにたいする差別政策といったものに強く規定されつつ、すぐれて歴史的に形成されたものなのである。


    なぜ,この構えになるのか。
    「国家/体制 → アイヌ差別」は,対偶が「反アイヌ差別 → 反国家/体制」である。
    彼らが「アイヌ差別」の主題を立てるのは,「反アイヌ差別」に「反国家/体制」の契機を見るからである。
    実際,彼らは,現国家/体制に対する政治的アンチのイデオロギー (所謂「左翼イデオロギー」) につく者たちである。

    彼らにおいては,小学生のいじめが国家/体制とつながる。
    彼らにおいては,「反アイヌ差別」のキャンペーンは,「反国家/体制運動」と位置づけられるものになる。

    彼らは,この構えを以て,「アイヌ民族」のことばを用いる者になる。
    なぜなら,「反アイヌ差別」キャンペーンは,アイヌがあってのものであり,そしてアイヌをいまに存在させる形は「アイヌ民族」の他にはないからである。


    これはまるで,「アイヌ」を政治運動のだしに使っているみたいではないか。
    「まるで」も「みたい」もない。
    まさにそうなのである。
    アイヌ系統者 (先祖にアイヌがいる者) のうち「アイヌ民族」に括られようとする者は,ほんの僅かである。 圧倒的多数は,括られるのを御免こうむるという者である。


    ただし,「アイヌ学者」の名誉のためにこれは言っておかねばならないが,彼らはさほど意識的/確信犯的に「アイヌ民族」のことばを使っているわけではない。

    彼らは,もともと,<ことば・概念>をよくわかっていない者たちなのである。
    <ことば・概念>がわかっているとは,簡単に言うと,「内包・外延」の意味がわかっているということである。
    「アイヌ学者」は,ことばを使うとき,そのことばの外延を意識することがない。
    「アイヌ差別」「アイヌ民族」のことばを使うとき,これの<実際・実数>の意識がない。
    こうして,全称 (「遍く」) になってしまうのである。

      彼らの言が「一方的」なのは,全称の物言いだからである。