Up 「アイヌ学者」の学術レベル 作成: 2017-03-14
更新: 2017-03-14


    「アイヌ学」の立てる命題には学術的といえるものが乏しいが,それでもこれはまさしく学術的だといえる命題が一つある。
    それは,つぎのものである:
      和人が蝦夷に疱瘡・結核・梅毒を持ち込んだ
    これが学術的な命題であるというのは,「証明」という作業が,論理上立つからである。

    この命題の証明は,かなり難しそうに思える。
    そこで外部者は,アイヌ学者はこの命題をどのように証明しているのかと,興味津々になる。
    翻って,アイヌ学者は,つぎをどう考えているかで,その学術の程度が知られることになる:
      《何を示すことが,命題を証明したことになるか》


      榎森進「シャモがもちこんだ結核」
    『アイヌ民族の歴史』, 草風館, 2007. pp.428-430.
     そればかりではない。 和人との接触によって梅毒や肺結核にかかる者が急増し、それがまたかれらの生活に決定的な打撃をあたえたのである。
    とくに肺結核は、「近年著シク人目ニ触ルヽハ肺結核ニシテ、漸次蔓延(まんえん)シテ大害ヲナサントス」(『北海道旧土人』1911年) とあるように、明治20年代以降急増し、その死亡率も和人よりはるかに高かった。
    たとえば、明治末期の総死亡者に占める結核死亡者の割合は、全道平均 9.7% にたいし、アイヌの場合は 22.8% とすこぶる高く(『白老村・敷生村・元室蘭村、旧土人結核病トラホーム調査復命書』1913年)、なかでも十勝・日高・上川地方のアイヌの死亡率が高かった。
    1912 (大正元年)〜1916 (大正5年)年の五カ年平均では、全道平均7.47%にたいし、アイヌの結核死亡率は25.31%で、なかでも十勝の河西(かさい)支庁管内のアイヌは 48% の高率を占め、次いで日高の浦河支庁管内のアイヌが 33.57%、上川支庁管内のアイヌが 30% となっていた(『旧土人に関する調査』1919年)。
    つまり、これらの地域のアイヌにあっては、死亡者のうち三人に一人ないしは二人に一人は結核で死亡したのである。
    そして、こうした結核死亡者の多いところは、すべて明治20年代の後半からドッと和人がおしよせてきた地域であった
     1911(明治44)年、日高の荷負(におい)尋常小学校(現平取町の内) に赴任した青年教師吉田巌は、この地のアイヌの悲惨な生活を目のあたりにして、その様子を怒りをこめて次のように記している。
     じめじめした室内、暗室の掘立小屋、煤と塵とで埋まってる窓や器物、不潔狼籍。
    日光もなく通風もない。
    奥まった暗がりにキョトンと二つの光った病人の目には時々涙をわかした。 食物の欠乏か、飲料水の不備か、栄養の不良か、生気なく、なえしなび、よぽよぼ風にたへぬオヤヂ (老爺)、朦朧(もうろう)として炉辺にうづむいてるバッコ (老婆)、生けるミイラかとがっかりする。
     一寸(ちょっと)雨にぬれては感冒をひく、ひいては永びく、肺だ、肋膜(ろくまく)だとさわぐ。 麻疹でやられる。 百日咳にとりつかれた経過はわるい。 余病が出た、欠席だ。 死んだとさわぐ。 出席の奨励どころか、猶予だ、就学の免除だと来る。 ‥‥‥幸い健康者に伍して通学し得る児童をどうする。 感染、発病、いつかと破目が気遣はれてならぬ。
     卒業させた。 安心ではない、死んで行った。 次から次へと卒業生名簿は過去帳になって行く。  (吉田巌『心の碑』)  こうした状況は、ひとり荷負のアイヌのみならず、多かれ少なかれ全道各地のアイヌに共通して見られたのである。
    道庁は、こうした結核の蔓延や高死亡率の原因を、
     (1) 遺伝梅毒・血族結婚・暴酒による体力の劣弱化と抵抗力の低下、
     (2) 勤労性の欠如と室内の不潔さ、
     (3) 冬期間の煤煙多き室内での多人数雑居、
     (4) 生活の困窮による防寒用具の欠乏と栄養不良、
    等にあるものとみ、あたかもアイヌ自身にその責任があるかのごとき見かたをしていた。
    しかし、その直接的な原因は、アイヌには結核菌にたいする免疫性がまだなかったため、和人と接触して感染すると、それが短期間のうちに同族のあいだに伝染したという点にあった。
    そして、これまで見てきたような生活基盤の破壊によるアイヌの貧困化と栄養不良による体力や抵抗力の低下が、こうした現象に拍車をかけ、かっその死亡率をいっそう高める結果となったのである。
    結核の死亡率が高かった地域が、明治20年代以降になって和人の入植がいちだんと進んだ地域であったことは、そのことをもっとも雄弁に物語っている
    平取町荷負の萱野喜太郎は、その様子を次のように語っている。
     しかし、なんと言っても一番長く根をはびこらせてアイヌを苦しめたのは結核だよ‥‥‥
    俺が結核という言葉を聞いたのは、シャモが入ってきてからだよ
    最初に家の者がシャモの家に住込みで働いたんだ。 そしたら半年もしないうち体の調子が悪いとして帰ってきてな、まもなく死んだのよ。 考えてみればあれが結核の菌をコタンへ植えつけた最初になるんだ。 それから俺の家を中心に次々と結核が蔓延してな。 金もないから病院にかけることもできん。 だから家で寝かしておくだけだ。 家も狭いし、今度は子供たちがパタパタと寝込んでな、おっかあーをはじめ、子供は八人のうち五人まで結核で死んでしまったさ。 (『アヌタリアイヌ』第八号、1974年2月20日)
     彼は1911(明治44)年生まれというから、大正・昭和期の事実も多くふくんではいるが、和人のもちこんだ結核がアイヌをどんなに苦しめることになったのかを知ることができるというものである。
    まさにアメリカの先住民族であるネイティブアメリカン (旧称アメリカインディアン) やオーストラリアの先住民族・アボリジニーがヨーロッパ人の進出によって遭遇した事態とまったく同じような問題に遭遇していったのである。

    榎森は,この文で「シャモが結核をもちこんだ」が立論できたと思っている。
    文中に<推論>が無いが,これは榎森が<推論>を知らないためである。
    この思考回路は,レヴィ・ストロースが彼の著作『野生の思考 La Pensée sauvage』の中で「ブリコラージュ」と呼んだものである。
    《役に立ちそうなものを手当たり次第に持ってくる》が,それである。

    科学は,ブリコラージュの「雄弁に物語る」には,ごまかされない。
    科学は,「言うべきことが言われている」を文中にさがす。
    そして,榎森の文に対しては,「言うべきことが言われている」が全くないことを見て取るのである。