Up アイヌ通史/高倉新一郎 作成: 2016-11-29
更新: 2017-03-13


    「アイヌ通史」に入る前に,通史のさらにダイジェストとして,
      高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969.
    の「序」(これはアイヌ通史になっている) を,以下に引いておく。
    ──なお,けっこう長いので,節をこっちで勝手に入れてみた。


    (「蝦夷島」)
    北海道すなわち蝦夷ヶ島の実情がかすかながらもわが国民に知られるようになったのは鎌倉時代の末、十回世紀以後の事である。

    (北方進出)
    わが国は水田耕作を基盤として近畿地方を中心に形成されていったが、東北地方は未だ自然物採取に依存する、従って水田を基盤とする者とは風俗、習慣、制度を異にする人々の住処だった。
    わが国ではこの人々を蝦夷と呼ぴ、同化して新しい国民の中に組み入れようとする努力が常に払われていた。
    そして、そのころ、こうした努力は本州東北端に達し、従って蝦夷は蝦夷ヶ島以北の地に追込められたのである。

    両者の接触は、近隣同士の、自分遠の居住地域に起こった物資不足を補おうとする出稼、時には資源の奪い合い、もしくは有無通ずる交易から始まったのであろう。
    それが国家を組織したために増加した需要を充たすために、国家の組織によって得られた権力を使用するルートとなった。
    国家の強力が地方を占拠する小部族に及ぶ、それが屈伏すると、部族の有力者に一定の待遇を与えて友好関係を確約させる。
    服従の証拠として、部族は征服者にその要求する土産を捧げる。
    征服者はその保護を約束して部族の欲するものを与える。
    こうしたことが、部族にとっても自分達が欲するもの、平生不足するものを獲得する機会であり、そのことによって自己の地位を確保し強化するととができる。
    こうして国家の支配は次から次へと伸びていった。

    (東北)
    東北ではこの経路が二つあった。
    一つは東への道で、陸路を通って陸奥の鎮守府に到り、ここを根拠として地歩をすすめる方法で、これはやがて移民を入れ、次第に農耕社会化していった路であり、一つは北への道で、日本海岸に出ると船路に乗って所々の良港に基地を置いて行く方法で、その中心が出羽の柵であった。
    これは東の路とは異り、飛石的な、点的な進展であって、農耕社会化は、背後に適地を持つ場合にのみ形成された。
    季節風と海流に扶けられて、日本海の海運は盛んに行なわれ、京都に近く良港を多く持つ越前、若狭と秋田、能代などの交通は古くから開けていたのである。

    (蝦夷島進出)
    そうした情勢を更に発展させたのは、宋国との交易によって発達した海運、商業であった。
    更に京都の繁栄は、北陸の物産では足らず、これを遠く北辺に求めるようになった。
    北陸の商船は遠く津軽の十三湊、蝦夷地の箱館、上ノ国まで航路をのばして、見布、干鮭、毛皮などを集めた。
    こうして京都は蝦夷島に接近していったのである。
    政権が鎌倉に移ったことはその勢を更に強めた。

    こうして室町時代になると蝦夷地の南部は日本の交易圏内に入った。
    最初は各地の蝦夷の豪族が、生産物の余剰を携えて、親しい安東氏の占拠する津軽十三湊、秋田などに来航し、安東氏に土産をおくって敬意を表した後交易を行ない、北陸等の交易船はこれを目当に十三湊や秋田に集まり、安東氏はこれによって財源を得ていたが、やがて安東氏の許を得て北陸船で蝦夷島に出かけて直接に交易を行なったり、蝦夷地に出稼して産物を獲得したりするものが多くなり、やがてそこに根拠地を置くものができて来て、蝦夷地の南部は安東氏の勢力内に入って来た。

    (松前藩興起)
    室町末、安東氏の勢力がおとろえると、蝦夷島の豪族は上ノ国にあって勢力をたくわえていた蠣崎氏に統一され、直接豊臣秀吉に結びついて蝦夷地に出入する者の取締を一任され、蝦夷島主の待遇を受け、やがてそれに替った徳川家康に随身して氏を松前と改め、幕府下の一藩を形成するに至った。
    松前氏は蝦夷島を松前地 (シャモ地もしくは人間地とも通称す) と蝦夷地とに分け、松前地は直接に支配し、蝦夷地は悉く蝦夷の住むに任せ、蝦夷地に行く者は必ず藩主の許可を得ねばならないことにし、沖ノロ役所を設けてこれを取締った。

    蝦夷島の蝦夷は十三漢のかわりに松前に集まり、安東氏のかわりに松前氏に敬意を表し、北陸の商鉛は松前に来航して交易をし、そこに集まる蝦夷島の物産を京都に送った。
    松前は十三湊にかわって蝦夷と北陸商人との接触点として重要になった。

    (移民)
    松前を中心として藩が成立した時は、西は熊石 (久遠郡熊石町)、東は亀田 (函館市) に及んだ海岸には漁民が居を占め、藩民(百姓) は漸く増加し始めていた。
    元来津軽海峡は、晴れた日は対岸がはっきり見える狭さであり、対岸の往来は昔から行なわれ、津軽、南部などの者が漁期になると出稼に来ていたと思われるが、やがてその中には次第に永住する者が殖えて来た。
    彼等は奥羽蝦夷又はその子孫であった者もあろうし、南から来た者の子孫であったかも知れないが、蝦夷と交わって漁猟に従事し、次第に蝦夷を同化し、東北の漁村と変らないものにしていった。
    松前地方には、従来多くの蝦夷が住んでいたが、次第に移民に押されて奥に移り、もしくは出稼の持ち込んだ伝染病に斃れてその数を減じ、更に多くの者は同化されてその区別がつかなくなっていった。

    (交易商人)
    松前を発達させていったものは北陸商人であった。
    彼等は京都の市場を控えてそこへ北陸の物産を送る役目をしていたが、京都の需要が増すにつれて集荷区域を拡大し、生産加工方法を改良して商品の増大を図った。
    やがて、北陸から京都への物資輸送の要衝を占め、織田信長などの保護によって新しい商権を獲得した近江商人がこれにかわることになった。
    彼等は辺境の漁民に生活必需品並に漁具等の資本を前貸し、漁期が終わると生産品によって精算するという方法で産物の増加を図り、集荷を確保した。
    松前の漁民もこうして生活の保障を得たのであった。

    このことは松前の領主と雖も例外ではなかった。
    松前氏も、最初はこうした商人を相手にして基礎を作ったのであり、松前氏を秀吉に結びつけたのは北陸商人であり、松前の財政は事実上近江商人の代表である両浜町人によって運営されていた。

    (場所交易)
    商人達は、単に松前だけの集荷に満足しなかった。
    蝦夷地の物産を、蝦夷が獲得して松前にもたらすのでは満足せず、自ら船を蝦夷地に送って集荷しようとした。
    蝦夷もまた、自ら船を艤して幼稚な技術で松前に来るよりも、居ながらにして欲する物が豊富に手に入ることをよろこんだ。
    松前藩は一定の運上をとってこれを許した。
    こうした方法は、恐らく安東氏時代にもとられていたかと思われるが、松前氏はこれを制度化し、家臣には蝦夷地を有力な酋長の支配する境界に従って多くの場所に分け、その酋長と交易をするために行く船は一定の大きさを限って無税とし、それを知行にかえた。
    すなわち、知行主は、毎夏小船 (二、三十石の図合船と呼ぶ縄綴船) 一隻に蝦夷の欲するものを積込んで場所に派遣し、松前で行なわれたと同様な交易を行ない、その産物を松前で商人に渡し、その利益をもって俸禄にかえることにしたのである。
    松前での交易をウイマム(御目見え)と唱え、先ず藩主に謁見し、儀礼の交換を行なった後交易したように、蝦夷地との交易はヲムシャ (久𤄃の挨拶) と唱えて、交易に出かけた者と場所の酋長との間に儀礼の交換があった後交易が行なわれた。
    この交易は、蝦夷の欠乏する物を供給するという意味から、介抱と呼ぴ、事実、これによって蝦夷の生活は向上し、飢餓の憂は遠のいたと思われる。

    (蝦夷物産)
    蝦夷地に人を派遣する必要は、こうした交易だけに止まらず、戦国時代から武将に珍重された鷹、商業の発達と共に重要になった砂金、木材、鮭など、蝦夷地に豊富に産し需要も多いが、蝦夷に任せておくことの出来ない産物があった。
    藩はこれらの採取を希望する者にも同じく運上金を納めさせ、掟を守り、蝦夷と直取引をすることなく、また蝦夷に迷惑をかけないことを誓約させてこれを許した。

    こうした事業の拡大と共に、これらに従事し、もしくはこれらに従事する者に物資を供給する商人は、最初は土人の家屋を借りて宿り、季節が終わると本国に引上げたが、次第に永久的な店舗を設け、自らもしくは番頭、手代、奉公人を常駐させるようになった。

    (商業立藩)
    こうして松前は、地元の者に物資を供給すると共に、諸国から集まる船や旅人の世話をする店舗 (多くは出張所) を持った近江、北陸、出羽などの商人、それに雇われて働くもの (蝦夷地行きの船頭、通辞、番人など)、および商店から仕込を受けて生活する者 (漁業者) から成立っていた。
    要するに商人、船人、漁民の集まる港町だったのである。

    住民の多くは、藩主はじめ藩士をも、米噌並に日用品のすべては旅人である商人から仕送りを受けて生活し、蝦夷交易を行ない、もしくは鰊、昆布、鮭、それに長崎俵物として珍重された干鮑、煎海鼠等の生産に従い、それを仕込主に納め、或者は蝦夷地に出稼することによって生活を維持していた。
    従って農耕はただ日常の不足を補うに止まり、工業などは全く発達せず、すべて他国からの供給にたよっていた。

    (場所請負商人)
    蝦夷地の事業も、最初は蝦夷の集まる、船泊りのいい場所に仮小屋を建て、もしくは蝦夷小屋を借りて交易し、満船になると引揚げた。
    しかし、産物が増すにつれて滞在期間も長くなり、交易も恒常化すると、その建物は永久的なものとなり、殊に商人が知行主に替って交易に当るようになると、直接使用人を派遣して滞在させ、出張店の形をなし、やが蝦夷交易以外の諸産業にも手を拡げるようになった。
    この出張所は、すくなくともこの事業に課せられた運上金を生み出さねばならぬ場所として運上屋と呼ぴ、一定の条件で運上金の納入を請負うという意味でそれを経営する商人を場所請負人と呼んだ。

    (アイヌ雇用)
    場所請負人は、単に蝦夷の産物を交易によって集めるだけではなく、蝦夷を使って、従来蝦夷が使わなかった能率の高い道具を与えて増産を図り、従来蝦夷が利用しなかった産物を商品化した。
    それには従来の蝦夷の労働組織を改めて、蝦夷が商人の指図に従って能率的に働くようにせねばならなかったが、交易の利益を知った蝦夷は、衣、食の料を比較的容易に得られるだけではなく、酒、煙草などの晴好品も覚えて、これなしではすまされなくなり、商人はこれを前貸をしたので、何時しか商人の駆使に甘んぜねばならない様になっていた。
    彼等は、請負商人にたよって、派遣された使用人の指揮に従って働く労働者と化していったのである。

    運上屋には直接蝦夷を指揮して働かせる番人、それを指揮する支配人、支配人を助ける帳役、これ等と蝦夷との間の意志疏通を図る通辞などが派遣された。
    新に漁場が開かれ、それに運上屋の出張所である番家が設けられ、漁期には番人が土人を率いてそこに詰めた。
    最初は漁期が終わると引揚げたが、漁業が盛んになると漁具や産物を貯える蔵が建ち、これらを管理するために商人の使用人が年中運上屋に駐まるようになった。

    (アイヌの従属民化)
    松前藩は、藩と交易を行なう蝦夷の酋長に乙名(おとな)の名を与えて特別の待遇をしたが、こうなると、運上屋の命令を部下に伝えてその実現を図る、乙名の補助者小使(こづかい)なるものが任命され、特別の役料が給与されることになった。
    こうして蝦夷は、風俗・習慣・生活こそ元のままであっても、最早独立した存在ではなく、全く松前に従属したものとなってしまった。

    こうした過程は蝦夷地全体に対して同時に進行したものではない。
    松前から便利なところ──それは地理的距離ではなく、産物の豊富さ、船路の良さ、泊地の有無、更にはその地に住む蝦夷の友好度などによったと思うが──から始まって次第に奥地に及んでいた。
    瀬棚、国縫を結ぶ線以南は藩初からこうした関係にあったと思われるが、藩の勢力が石狩低地帯に及んだのは寛文以後、厚岸に交易船が派遣され始めたのはすでに藩初であったが、これが東端根室附近にのぴ、更に国後島に及んだのは宝暦年間、真に支配が行きわたったのは寛政十一年幕府直轄以後のことである。
    西海岸でも同様で、交易船が宗谷に派遣されるようになったのは貞享年間、南樺太・斜里に及ぶようになったのが寛政二年、真にこれらの地方に支配が行き届いたのは文化四年幕府直轄以後のことであった。

    (交易商人の繁盛)
    蝦夷地の場所は天明年間で五十ヶ所、春になるとそれぞれの場所に行く船が運上屋雇員をのせ、交易品や漁具、生活必需品を満載して松前港を出港する。
    それを追うように、松前の産物を買集めるために諸国の船が、これも米、塩、酒その他の松前人の必用品を満載して松前の港に集まって来る。
    その賑いが蝦夷地の鮭漁を終わって切上げて来る船との取引がすむまでつづく。

    大店は蝦夷地行きの船の仕込み、諸国からの商船の世話、産物取引の斡旋などに忙しい。
    蝦夷交易も、松前住民への仕込みも、漁猟の不安定さと航路の危なさで危険を免れなかったが、それに見合う利益率を見ることができたし、諸国商人との取引は、藩制によって、これらの商人が組織する問屋を通さねば行なうことが出来なかったので、取引毎に手数料をとることができた。
    是等の商人は、大きな店舗を設け、土蔵を立て並べ、「江戸にもない」といわれる豪勢さを示した。
    彼等は松前藩の御用商人として、又経済関係を実際に司る沖ノ口の下役人として、藩の死命を制していたのである。

    しかし、彼等の多くは旅人であった。
    店舗はその支店、それに勤める支配人以下丁稚まで交代に国元から派遣されていたものであった。
    彼等の生活は上方風を受けて豪華なものとなったが、いわば鉢植の花であった。
    自らは根をおろさず、本店の都合によって惜気もなく去って行くものであった。

    (民の境涯)
    松前の百姓は、これらに依存して生活を保っている人々であった。
    商人の仕送りを受けて鰊漁や鮑突、昆布漁などの小規模漁業に従事し、不足なところは商人に雇われて蝦夷地に行ったり、船員を相手に商売したりした。
    商売といっても煮売や甚だしいものは子女に春をひさがしていたのである。

    多くは、郷里を喰いつめてこの地で新しい運命を開拓しようとする者、中には犯罪者、無頼の行為のため戸籍を除かれた無宿者、帳外(ちょうはずれ)者もいた。
    松前藩は沖ノ口で厳重に検査して、好ましくない者は上陸を許さず、また永住者は土地に身元のたしかな親類縁者のある者に限ったが、充分に取締ることができなかった。

    (アイヌの境遇悪化)
    蝦夷地に赴く人々の中には往々にしてこうした人が交っていた。
    彼等は私利のために、蝦夷に対して種々の圧迫を加えた。
    交易が主たる時代は交易品の質や量をごまかして掠奪に等しい行為をし、労務が主となると、ただ同様でこき使った。
    その上蝦夷の婦女子と通じ、争が起こるとかえってやりかえして償をとる有様だった。

    蝦夷は耐えかねて叛乱したが却って惨敗し、事情は更に悪くなりつつあった。
    従来何処に行くにも自由で、誰とでも取引の出来た筈の蝦夷は、決められた商人以外の者との交易は禁ぜられ、松前との往来もウヰマム以外は許されず、そのウヰマムも最初の藩主の同盟者という立場から臣従関係に変っていた。
    日本語の使用は許されず、風俗を易え新しい技術を採り入れることは禁ぜられてしまった。

    (ロシアの進出)
    そこへ、シベリアを横断しカムチャッカ半島を征服したロシアが一七一一 (正穂元) 年から千島列島の経略に着手し、一七二八 (享保十三) 年から政府が直接参加し、土人の帰服を図りつつ次第に南下し、一七七○ (明和七) 年ウルップ島に進出し、そこを根拠としてわが国に通商を求めて北辺に来航するようになり、ウルップに出稼していたそれ以南に住む蝦夷の中にもこれを親しみ、感化を受ける者が出来て来た。

    これを知った幕府は、天明五(1785)年以来幕吏を派遣して詳細な調査を行なった結果、松前藩のような小藩ではロシアに対抗して北辺を守ることができないことを知り、寛政十一(1799)年、先ず知内より亀田までの松前東海岸および東蝦夷地 (小安より知床半島に至る蝦夷島海岸および色丹、国後等の島々) を上知して直轄とし、未だわが国もロシアも手をのばしていなかった択捉島を開発して支配権を確保し、文化四(1807)年には更に残る西蝦夷地を直轄にし、樺太島南部から完全に満洲の支配を排除して蝦夷地の支配権を確立した。
    この直轄は文政五(1822)年廃止され松前氏に復領させたが、幕府の仕来った法を守るべきを命じ、安政二(1855)年には再び蝦夷地の大部分を直轄し、万延元(1860)年その一部を東北各藩に割いて経営せしめたが、幕府の方針を踏襲せしむることにして明治に及んだ。

    (アイヌ同化保護策)
    幕府は、蝦夷地を確保するために、蝦夷に対しては同化保護政策をとると共に幕吏や東北諸藩の兵を要所に駐在させ、蝦夷地の開発を図り、蝦夷地への出稼、移住を奨励した。
    すなわち、蝦夷に対しては、交易を直轄にし、もしくは監督を強化してその不正を正し、産業を指導して増産を図り、報酬を正しく与えて収入を確保せしむると共に、貧窮者を恵み、医療をととのえて厚生を図り、更に諸種の禁令をといて、生活の向上を図ると共に、積極的に風俗を改め、日本語を習うことを奨励し、名さえ日本風に改めさせようとした。
    殊にロシアと境を接する択捉島では、蝦夷の称さえ廃し、出稼人と全く同じ待遇にした。
    その限りにおいて蝦夷の生活は著しく向上したかに見える。

    (アイヌの下民化)
    しかし一方、一層強い強権が加わって、蝦夷の地位は事実上一層低下した。
    蝦夷地産業の直轄によって産業規模は益々大きくなり、蝦夷は全く独立生産者たる地位を失い、労働者と化し、その労働は益々強化されたばかりではなく、官吏の蝦夷地在住、往来がはげしくなると、送迎、案内、荷持、馬率、渡船、宿泊、それに駐在者の飯炊、使走りまで、下級労働はすべて蝦夷の一屑にかかり、それが賦役の形で半強制的なものとなった。

    (疫病)
    更に内地人の出入がはげしくなると、疱瘡、梅毒などの伝染病が侵入し、それらの病に対しては殆んど処女地であったから、病は暴威を振って、多くの人口を失った。
    すなわち、蝦夷の戸口調査がやや正確に行なわれるようになった文化年聞から幕府が再び蝦夷地を直轄するに至った安政年間まで約三十年余の間に、蝦夷の戸口は二万六千余人から一万九千、約その三分の一を失ったのである。
    故に、再直轄の時は、蝦夷は疱瘡を恐れて山中に逃げ込んだために一層深刻になったのだが、蝦夷地における労力不足が深刻化し、遂にわが国最初の強制種痘を行なってこの終息を図らねばならなかった。

    (場所労働の境遇悪化)
    この状態は、文化九年幕府が蝦夷地の経営を再ぴ場所請負商人の手に委ねるようになってから一層深刻化したようである。
    場所請負人は幕府の御用商人たる地位を得た。
    蝦夷を自由に使役する権利を蝦夷地経営の義務と共に継承した形になったのである。
    彼等は蝦夷の生活を保障する義務を負ったが、またこれをほしいままに使役する権剰を得た。
    当時の場所請負制度下の蝦夷の生活が如何に悲惨なものであったかは、本巻に収めた『近世蝦夷人物誌』によって察することができる。

    (アイヌ自治の終焉)
    これに対抗する蝦夷の自治は全く壊されてしまっていた。
    幕府は寛政十一年蝦夷地直轄と共に、従来化外(けがい)の民であった蝦夷にも国法を適用さすべしとし、但し複雑なものにはたえ得ないというので三章の法を設けた。
    すなわち、
    一、邪宗門にしたがふもの、外国人にしたしむもの、その罪重かるべし。
    一、人を殺したるものは皆死罪たるべし。
    一、人に疵つけ又は盗するものは其ほどに応じ咎あるべし。

    条文は簡単であるが、それは従来自らを自らの法式で治めて来た蝦夷に、我国法の及ぶことを意味していた。
    蝦夷独特の裁判法、すなわち、酋長、長老を中心としたチャランケ、サイムン、紛争解決法としてのウカル、ツクナイは陋習として、入墨、耳鐶、メッカキク、死人のある時家を焼く事等と共に禁止され、裁判は酋長、長老の手を離れて通詞、支配人、詰合役人の手に移り、乙名、小使なども、酋長や長老ではなく、請負人や詰合役人が選任するものとなってしまい、オムシャは、掟書を読み聞かせ、役土人を任命し、徳行者を表彰し、貧窮者をめぐむ行事となってしまった。

    (鰊乱獲・凶漁・追鰊)
    蝦夷地の変化に呼応したように松前も大きく変りつつあった。
    天明の凶漁である。

    従来松前地方の生命は鰊漁だった。
    毎年春になるときまって群来て、寡婦でさえも鰊割きを手伝ったり、拾鰊といって海岸に落とされた鰊を拾い集めて身欠(みがき)を作っても相当の収入をあげることが出来た。
    多くの者はこれで一年の生活の資を得ていたのである。
    ところがその鰊が、天明の凶漁を境にして群来が不定になった。
    松前では前浜に寄せる鰊をたよりに生きることは不安になったのである。

    一方、奥地の方では鰊が相変らず豊漁だった。
    人々は、追鰊と称し、船を仕立てて網や食糧を積み、鰊を追って蝦夷地に出稼するようになった。
    藩は納説を条件として是を許し、場所請負人は収穫の二分を受取ってこれを認めた。

    (締粕製造)
    一方、北陸航路は瀬戸内航路とつながり、大阪と直通することになった。
    大阪を中心に発達した木錦、藍、米などの耕作法は肥料として乾魚の需要を増し、従って魚油をとった後の締粕が市場を得た。
    蝦夷地では締粕の材料として鱒が使われていたが、やがてこれが鰊に替った。
    粕は身欠とちがって僅かな労力で処理することができる。
    漁場主は大網を用い、大量に漁獲してとれを締粕に製して販売した。

    締粕の製造は蝦夷の労働者化を促進したが、また差網で身欠を製造する追鰊の人々をも圧迫した。
    小前の差網業者は、蝦夷地の大網が鰊の凶漁を招くものだとして暴動さえ起こし、松前藩はこれを禁止していたが、事実上これを阻むことができず、安政二年、幕府は冥加金を納入させ、これで小前の者を救済する方法をたてることにして大網の使用を公認した。

    一方、蝦夷地の区別を撤廃して出稼を奨励する方針に出たので、漁民は次第に北上して漁場を開き、やがて山越内、小樽内などは村並となる程の村落を形成して、鰊漁の中心は松前を離れて奥地へと移っていった。
    江差はその出稼人の仕込場所、従って鰊の集散地として栄えるようになった。

    (松前地の繁栄)
    函館は東蝦夷地を直轄した幕府の根拠地となることによって勃興したが、安政元年再び蝦夷地行政の中心となり、更に開港場になることによって名実共に首府となり、繁栄は松前城下をしのぐ有様になった。

    この三港 [松前・函館・江差] の繁栄によって、松前地は蝦夷地の基地としての性格を強化し、商業が栄え、住民の職業も多彩化し、生活も向上して、独立稼業を営むものも多くなり、ようやく内地並の社会が生まれる素地が築かれていったのである。

    (米作の不発)
    しかし、わが国近世の基本をなす農業殊に米作農家は遂に生まれず、唯、比較的豊沃な平地に恵まれた函館、江差附近に、藩や幕府の援助によって、炭焼や駄付(だんつけ)の傍ら農業をする者が増加し、幕末にはこれが岩内、石狩などの平野に延びて行ったが、真の農村、殊に米作が社会の基礎となるのは明治の末である。

    (まとめ)
    従って北海道の近世は、行政としては封建制の形をとっていたが、これが基礎となるものは自然物採取であり、これを支配したものは封建領主と結んで経済を独占する商人であり、社会としては極めて不安定なものであったのである。
    いわばわが国封建制度の外国であり、そこで余された者が集まって社会を作り、その上に封建制度の下に奇型化された商業資本が活動していたのである。
    それは中世日本にありながら、日本の他の部分では見られない世界であった。

    (史料)
    こうした社会の実情を知る史料は必ずしも豊富ではない。
    それは、この方面に注意を向けられたことが晩く、すくなくとも戦後のことであり、辺境であるが故に文字に縁が遠く、社会が不安定であるために、史料の散佚が多かったためと思われる。
    従っていやしくも庶民の生活を描き、当時の実情を知り得るものは、たとい所謂庶民史料という範疇に属さなくとも、これを貴重し利用せねばならぬ段階である。