Up 場所制度──和人・アイヌ物交流/物交換 作成: 2017-03-10
更新: 2017-03-10


      高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    p.24.
     ともかく、松前藩は、城下・江差・箱館等の要港及ぴ熊石には番所を設け、出入の船舶及び旅人を取締り、みだりに蝦夷地に出入することを許さず、蝦夷地に赴く者には切手を与え、許可料すなわち運上金の納入を条件として特定の産業に従事することを許したのである。
     蝦夷地の産業としては蝦夷との交易の外に、鷹打・砂金採取・鮭漁・鱒漁・海鼠引・紫根掘等があったが、松前藩は自らこれを行う外に、一定の運上金を納付する者に条件を定めてこれを許した。
    蝦夷交易だけは、蝦夷保護の意昧があったので、家臣以外には許さなかったが、他の部面は願い出る者に許した。


      高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    pp.41-46.
     元和年間松前に来航した耶蘇宣教師の報告によれば、蝦夷交易は主として松前にウイマムに集まる蝦夷との間に行われ、和人が蝦夷地に赴いて交易することは、松前に近いセタナイを除いては余り盛んではなかったようである。 しかし蝦夷の来航はすこぶる頻繁で、日本海岸は遠く樺太から、太平洋岸は千島方面からも来航していたようである。 ことに太平洋岸から集まる船が百艘にも及んでいたという。
     それが、逆に、松前の商船が遠く蝦夷地に出かけて行って交易をするのが蝦夷交易の原則となったのは、何時頃、どんな形であったかは必ずしも明らかでない。
     ‥‥‥ 蝦夷地各所で和人と蝦夷との間に行われたオムシャという儀式がある。 後になると、一筒年に一回蝦夷地に赴いている和人が、関係のある範囲の蝦夷全員を招き、酒食を与え、賜物をするのであって、これを機会に掟書を読み聞かせたり、表彰を行なったり一年中の勘定をしたりする行事であった。
    一年中の労苦を慰労とか、蝦夷の服従を図るとかが主たる目的で、字にも御赦だとか御撫施だとかいう字をあてているが、元来、オムシャというのはアイヌ語で、ウ=互に、ムサ=なでさする、から来ている。 アイヌは久し振りで親しい者に逢うと、互に抱き合い、頭から身体をなできすり、涙を流して久濶の至情を現わす。 これをウムサという。 オムシャはその転語である。
    後になるとオムシャは年一回、多くは漁期の切上げ時に行われるのが常であったが、最初は先ず和人の商舶が到着すると、準備をし、付近の蝦夷を集めてこれを行い、後交易を始め、交易が終ると今度は送別の意味をふくむウエトツツコパク (互に別れを告げること、同じく別れの挨拶の仕方から来ている) なる儀式が行われたが、次第に初めて来た時の挨拶は失われ、しかしその意味が恐らくは蝦夷を集めるために大事だったので、ウエトツツコパクがオムシャとなったものであろうと考えられる。
    恐らくは松前藩が、将軍家から受けた黒印に基いて認められた蝦夷の保護者であるという地位を積極的に利用するため、蝦夷を撫育するという趣旨から、蝦夷地に向って交易船が出されたに相違ない、そして蝦夷は又、居ながらにして珍奇なものが手に入るので、これを歓迎したに相違ない。
    松前ではこの蝦夷交易を後々までも介抱と呼んでいた。
    伺事も不自由な、だから苦労をしながら城下にまで交易に集まって来る蝦夷に、その欲するものを持って行ってやる、という意味である。
    ウイマムが親愛なる隣国の有力者トクイ(得意) に対して行われる儀式でありながら、その節の贈物が実は交換の大切な要件であったように、オムシャは蝦夷地における交易の大切な要件であった。 介抱に行く者とこれを迎える土地の有力者との間に久濶の挨拶がのべられ、贈物が交換されて、その後に交易が始められたのである。
     この交易の範囲と人とは決められていた。 範囲を場所といい、この場所に対する蝦夷交易を知行として藩から特許されていた者を場所持といった。
    場所持は年々縄綴船一隻を自分の場所に派遣して交易をし、得たものを松前に持ち帰って売捌き、その利益を生活の資にした。 縄綴船とは木を刳って作った船敷に側板を木皮で閉じた船で、蝦夷のウイマム船がこれであった。 大きくて五百石積位のものであったが、吃水が浅く何処へでも引上げて停泊が出来、綴を切ると簡単に囲うことが出来る便利な船だった。
     場所の範囲は松前藩が決めたものではなく、相手の蝦夷の有力者の勢力範囲がそうなったものであろう。
    例えば、寛文九年蝦夷乱当時の「松前より蝦夷迄の所付」で見ると、蝦夷地各地の地名の下に「狄乙名、何某持分」と記してあって、それが場所に相当する範囲である。 しかし、場所としてまとまっておらず、たどその中の或る地点にだけ「何某商場」,と書いてある。 例えば「しきう」「しらおい」「しゃたい」は何れも「狄おとなヲカッフ」持分で、後白老場所を形成する範囲であるが、「しらおい」の所にだけ「松井茂左衛門商場」と書いてある。
    これらを見ると、場所持は、相手に決められた蝦夷の有力者の居所付近で、船付もよく、蝦夷も集合し易い場所に船を派遣すると、その有力者の配下の蝦夷がここへ集まって交易をしたものだろう。 それが、後世になって、和人が漁業をするようになってから境界がやかましく、場所なるものが成立するに到ったのだろう。
    しかもその時ですら蝦夷の習慣が重んぜられた。
    例えば明和四年(一七六七) 藩士高橋浅右衛門の支配する厚田場所と下国但見が支配する増毛場所との境界については「夷地ノ義ハ夷次第ニ致シ可然」と裁定している。 とにかく、一定の場所に毎年交易船を派遣し、その付近の蝦夷と交易をするようになることが場所設定の要件だった。
     ‥‥‥
    場所が地域的に固定されるのは幕府直轄以後の事であるが、それまでに多少の合同や分裂があったと思われる。


      高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    pp.47,48.
     毎年春になると、諸国から蝦夷目当の交易品を積んで商船が城下に集まって来る。
    藩及び藩士はこれらの品物を買集める船を用意し、舶の出入りを取締る沖口役所の許可を受けて各目的地に向って出航する。
    船には船頭・船子の外に蝦夷交易を指揮監督する者が一人、藩船では藩士が二人程土上乗役(うわのりやく)として乗込む。
    それに両者の意思を疎通する通詞その他が乗込んで行く。
    目的地に着くと、用意をして、監督が中心になってオムシャを行い、蝦夷を集める。
    蝦夷は貯えた産物もしくは獲た土産を持って来て交換を行う。
    交易は全く物々交換であるが、交換比率は米で決められていた。
     交易は最初船中又は海浜などで行われていたかも知れない。
     ‥‥‥
    しかし、交易がやや長期にわたると、運上屋と呼ぶ交易所が設立され、交易はそこで常時行われるようになった。


      高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    pp.53,54.
     蝦夷交易も、もともと松前から持渡るものはことごとく本州から移入されるものであり、交易して得たものは大部分本州市場で売捌かれるので、場所持及び藩は、本州から積まれて来る荷物を小船に積んで蝦夷地で交易をしに来る、いわば蝦夷地物産の集荷人に過ぎなかった。
    故にその交易の使命は本州の大商人に制せられていたというべく、藩や藩士がこれに当っていたのは、黒印状に示された蝦夷の保護者であるということだけだった。
    故にオムシャを中心とする儀礼的な交易が、全体の蝦夷交易の一部分に過ぎなくなると、これすら商人に任せてしまうことになった。
    すなわち、蝦夷交易の品物を提供し、交易品を売捌く実権を握っていた商人は、やがて蝦夷交易にも乗出し一定の運上金を場所主に納めて自らこれに当ることになったのである。
    場所持の多くは、これらの商人から負債を負い、その仕送りで生活をしているような有様だった。
    商人も一定の金を納めてその実権を握った方が有利だったろう。
     こうして享保年間には藩の交易船も商人の手に渡されてしまっていた。
    一定の運上金で場所の産業を請負うという意味で、これ等の商人を場所請負人と呼ぶ。
    蝦夷地の交易はこの商人の手腕と技術並びに資本が投下されることによって著しく発達した。