Up 場所請負制──<被雇用アイヌ>の始まり 作成: 2017-03-11
更新: 2017-03-11


      高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    pp.68-71.
     こうして蝦夷は貧窮化して行って、新しい技術が入れられても、これを自らの力で採用して行くことが出来ず、資材の前貸しを受けて産物全部を請負人に納めて差引勘定を受ける半雇用人、もしくは全く請負人の指図のままに働いて労賃を受ける雇用人となり、その独立を失ってしまうのであった。
     独立稼業か、半雇用か、全雇用かは人によるというよりは仕事によって違っていたようである。
    例えば、主として冬期に行われる狩猟、余り漁獲高のない雑漁など個人的な技能を主とするものは個人に任され、その結果は交易を通じて集められた。
    しかし個人の技能を主とするが生産量の多いものは、例えば寛政四年(1795) 宗谷で行われた煎海鼠漁の様に、漁期前に道具や飯料などを前貸しておいて仕事にかからせ、専買だからでもあったが、各人が取り上げたものをその度毎に数え、多くとったものはその数に応じて賞与を与え、それを又各人が家に持帰って煮、串にさして干上げた物を受取り、多くは帖付にして、秋オムシャの時に差引勘定するのであった。
    この時には、採るのは各人の腕次第であるが、漁具は多く請負商人から借り、品物は全部請負商人に指定の価で納付せねばならず、採取過程にも商人の干渉を受けたのであった。
    これは、労働意欲の低い蝦夷に生産を挙げさせるためには止むを得ない方法で、他の漁業にも和人の指揮監督の下に、蝦夷が従来の方法で集団的に働く方式が拡がって行った。
     集められた干海鼠は、運上屋にメノコ(夷女) が招集され、これを串から抜き、荷造りされた。
    この際のメノコは全くの労働者で、恐らくはその仕事に応じて酒飯が供せられた程度であったろう。
    しかし、商人の指揮によって大勢の者が集まってその監督の下に働く機会は次第に多くなって行った。
    漁業が盛んになるにつれて、荷造り・荷役その他の使い走り仕事がようやく多くなって行った。
     鮭・鱒・鰊のように、季節的に大量押寄せて来るため、大網を使って大規模化し得た漁業は、最早蝦夷の手ではどうすることも出来ず、その漁期だけ全く請負人に雇われて報酬を受けるようになった。
    ことに締粕が始まると、この傾向はさらに強くなった。
    従って、これ等の漁業が各場所において支配的な地位を占めるようになればなる程、蝦夷の雇用人化は拡大して行った。
     こうした労力に蝦夷を引込んで行ったのは、独立した生活よりも豊かな、安全な生活があったためであるが、一部は前貸制度のためであった。
    寛文九年の蝦夷乱の時も、「串貝一束もたり不申候はば来年は二十束にてとられ、出来兼申狄は子供質にとられ申候」といっていることはすでにのべたが、差引勘定に当っては出来るだけ蝦夷に負債を負わせ、翌年も働かせるようにしたらしい。
    例えばオムシャでは、運上屋に蝦夷を集めて総勘定をした上酒食を饗したのであるが、多くの場合それだけでは足らず、運上屋からさらに酒を買って呑み、それが負債となって残る場合が多かったと思われる。
    そこで、オムシャの際饗せられる酒や米の一部は最初から蝦夷の負債で行われた。
    例えば、寛政十二年「蝦夷土産」に
    蝦夷にオムシャと言事あり、是は毎年夏秋之内松前家役人場所へ下り、土産となぞらへ、米麹何十俵 (但し八升入なり) 煙車壱弐把、酒壱樽 (四升入) を添へ‥‥‥家柄の夷人へ遣す事のよし‥‥‥此土産の品の内、煙草斗は誠に(くれ)遣す事なれども、其余の品は追々産物を以代りもの取上る仕来りにて‥‥‥仕来とは言ひ乍ら、土産にくれし代を勘定して取立るもおかしなもの‥‥‥」
    といっている。
    オムシャの際前貸の形で貸付け、後、産物で勘定させた名残であろう。