Up | 「アイヌ学者」 | 作成: 2017-02-04 更新: 2017-02-04 |
こうして,つぎの者は,「アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言う悪どい、こすいアイヌ」ということになる:
「アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言う悪どい、こすいアイヌ」を,思想は「大衆」と呼ぶ。 「自分は大衆の方につく」を明言した思想家が,かつていた。 吉本隆明である。 「大衆につく」とは,大衆のことを「悪どい、こすい」と言う者・言わせる者を退けるということである。 「大衆」に対し,彼らは「知識人」である。 こうして,吉本隆明は「知識人批判」を一生の仕事とすることになる。 吉本隆明は,特別な思想を行ったわけではない。 吉本隆明が特別に見えるとすれば,それは彼の嵌まった分野が特異だからである。 大衆のことを「悪どい、こすい」と言う・言わせる分野は,特異なのである。 科学では,大衆のことを「悪どい、こすい」と言う・言わせる者も,「大衆」のうちである。 科学は,この「大衆」を科学する。 数学・物理学・化学・地学等々は,「大衆」の学である。 吉本隆明は,科学をしようとしたに過ぎない。 「歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる」を言う女子高校生,そしてこの女子高校生を持ち上げる貝沢正──彼らにとっての「歴史」は,これを書いた者がいる。 書いた者と,この書いた者に追随した者がいる。 そして「アイヌ学者」が,この者たちの中心にいる。 水素が燃えて水ができる。 化学者は,この事態に対し,怒りを向けるべき対象をつくらない。 「アイヌ学者」は,怒りを向けるべき対象をつくる。 両者の間では,何が違うのか。 「教養」である。 化学反応が「正邪」の出来事になるところがある。 それは,アニミズムを思考様式にしているところである。 《水素が燃えて水ができる》は,神や悪魔の話になる。 「アイヌ学」は,これである。 歴史学は,アニミズム (「正邪」) の思考回路が棲みやすいところである。 これを,科学に変えようとした者がいた。 ヘーゲルである。 そしてこれに触発され,経済学を科学にしようとした者が,マルクスである。 ひとは,「搾取」を「悪者が搾取する」に解釈する。 マルクスは,「悪者が搾取する」は,化学反応ではないかと考える。 こうして,「資本」(「商品経済」) の概念にいたる。 経済学は,マルクスの『資本論』になって,「悪者」がいなくなる。 翻って,「悪者」を立てるのは,アニミズム (「正邪」) の思考回路だということがわかる。 しかし,マルクスは,自説を持ち堪えられない。 「資本主義を倒して搾取を無くす」に進んでしまう。 これは,「重力場を倒して落下を無くす」と言っているようなものである。 この思考回路を「マルクシズム」と呼ぶ。 科学がイデオロギーに堕したわけである。 「アイヌ学者」は,ここで述べたようなことの教養を欠く者である。 「系」「ダイナミクス」の考えを持てないアニミズムの者たちである。 「商品経済」のことばを用いることができている者も,商品経済の意味がわかっていない。 したがって,歴史を書けば,「和人がアイヌに悪事をはたらいて,こうなった」話になるのみである。 「アイヌ学者」は,どうしてこのようなのか。 分野への入り方が,原因である。 教養をつける過程を省いて専門領域に入ってしまう。 昔の学者は,教養の重要さを知っていた。 そこで大学は,教養課程を置き,その上に専門課程を置いた (効果の程は別として)。 「専門と並行して教養をつける」は,成らない。 専門で忙しくしてしまうからである。 教養に振り向ける時間は,専門に当ててしまうからである。 しかし,いまは学術も,商品経済にがんじがらめになっている。 「成果の短期回収」で行かねばならない。 自然科学だと,直接専門課程に入ってもだいじょうぶな面がある──それでも分野によってということになるが。 だいじょうぶでいられるのは,「規範学」の性格が強いからである。 人文科学は,こうはいかない。 そして,「学者」と呼ばれる者は,学術の「劣化」がわからない。 仲間で自閉しているので,学術の「劣化」が見える契機がないのである。 これは「悪口」で言っているのではない。 事実である。 例えば,「北海道大学 アイヌ・先住民研究センター」のHPを覗いてみるとよい。 実に屈託なく「アイヌ民族」のことばを使っている。 「アイヌ民族」が論点であることを知らない──そもそも「論点」の意味がわからない──ので,屈託がないのである。 |