Up 「アイヌ学者」 作成: 2017-02-04
更新: 2017-02-04


      貝沢正「近世アイヌ史の断面」, in『コタンの痕跡』,1971. pp.113-126
    pp.125,126
     私は自らの意見も言わず、例を述べるに過ぎないが共感を得たものを列記した。
    もう一つ、十勝の女子高校生の稿をお借りして新しいアイヌの考えを知ってもらいたい。

    歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる
    「差別されたから頭に来た、あいつらをやっつけたい」
    それはそれだが、そんな小さな問題に目を向け右往左在しているだけでは駄目だ。
    私たちがアイヌ問題を追って行く時突き当る壁は同化ということだ。
    明治以来の同化政策の波は、もはや止めることはできないだろう。
    私は、何とか、アイヌの団結でシャモを征服したいものだと思った。
    アイヌになる。
    北海道をアイヌのものにできないものか。
    だが、アイヌの手に戻ったとしても差別や偏見は残るだろう。
    やはり、根本をたたき直さねばならないのです。
    アイヌは無くなった方がよいという考え方、シャモになろうとする気持が、少しぐらいパカでもいいからシャモと結婚するべきだと考えている人が多いと思う。
    私の身近でも、そういう人が随分いる。
    私はこのような考え方には納得できない。
    シャモに完全に屈服している一番みにくいアイヌの姿だと思う。
    これは不当な差別を受けても "仕方がないのだ " と弱い考え方しかできない人たちなんだと思う。
    アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言うなら、それは悪どい、こすいアイヌだ。
    なぜ差別を打倒しないのか
    なぜ、アイヌ系日本人になろうとするのか。
    なぜアイヌを堂々と主張し、それに恥ることのない強い人間になれないのか。
    どうしてアイヌのすばらしさを主張しようとしないのか?
    私は完全なアイヌになりたい。
     個人が自己を確立し、アイヌとして真の怒りを持った時、同化の良し悪しも片づけることが出来ると思う。
    強く生きて、差別をはね返す強い人間になることだ。』


    こうして,つぎの者は,「アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言う悪どい、こすいアイヌ」ということになる:
      森竹竹市『原始林』(1937)
     序
     文字の無かったアイヌ民族にも、昔から宗教があり芸術がありました。 火や水や木や熊等を至高の神とする外、宇宙の森羅万象を神として仰ぎ祈り敬う。 此の宗教観念から醸し出された熊祭の伝説や、川姫とアイヌ乙女の純情物語や、熊とアイヌメノコの悲恋物語等、本書の詩篇に取材された幾多の諮り草は、平和な古代生活を潤す情操の泉でありました。
     今日の同族は立派な教育を受け、宗教も次第に近代化し、新聞雑誌や凡ゆる文明機関に依って情操も豊になって参り、自然古来から口伝された宗教様式や伝説等は廃れ、現存する古老の去った後は、全く之を見聞する事が出来なくなりました。 此の過渡期に生れ合わせた自分が、同族の同化向上に喜びの心躍るを禁じ得ない反面、何か言い知れない寂寥の感に打たれるのをどうする事も出来ないのであります。 斯うした懐古の情が、私を馳って、折々古老を訪ねては伝説を聞き、風俗を質ね、各種の儀式には必ず参列して見開し、之等を詩化すると共に、刺戟の多い近代社会生活に於けるアイヌ青年の真情を、赤裸々に告白したのが本書であります。

     もとより貧しい文藻ではありますが、比の意味で私にとっては心の碑であり、やむにやまれない心の叫びであります。 同族皆が、合理的な近代文化の中に融合し終って、本書が遠い過去の記念碑として、取残される日の一日も早い事を切望して居ります。
      昭和十二年初夏
      白老にて著者


    「アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言う悪どい、こすいアイヌ」を,思想は「大衆」と呼ぶ。
    自分は大衆の方につく」を明言した思想家が,かつていた。
    吉本隆明である。
    大衆につく」とは,大衆のことを「悪どい、こすい」と言う者・言わせる者を退けるということである。
    「大衆」に対し,彼らは「知識人」である。
    こうして,吉本隆明は「知識人批判」を一生の仕事とすることになる。

    吉本隆明は,特別な思想を行ったわけではない。
    吉本隆明が特別に見えるとすれば,それは彼の嵌まった分野が特異だからである。
    大衆のことを「悪どい、こすい」と言う・言わせる分野は,特異なのである。

    科学では,大衆のことを「悪どい、こすい」と言う・言わせる者も,「大衆」のうちである。
    科学は,この「大衆」を科学する。
    数学・物理学・化学・地学等々は,「大衆」の学である。
    吉本隆明は,科学をしようとしたに過ぎない。


    「歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる」を言う女子高校生,そしてこの女子高校生を持ち上げる貝沢正──彼らにとっての「歴史」は,これを書いた者がいる。
    書いた者と,この書いた者に追随した者がいる。
    そして「アイヌ学者」が,この者たちの中心にいる。

    水素が燃えて水ができる。
    化学者は,この事態に対し,怒りを向けるべき対象をつくらない。
    「アイヌ学者」は,怒りを向けるべき対象をつくる。
    両者の間では,何が違うのか。
    「教養」である。

    化学反応が「正邪」の出来事になるところがある。
    それは,アニミズムを思考様式にしているところである。
    《水素が燃えて水ができる》は,神や悪魔の話になる。
    「アイヌ学」は,これである。


    歴史学は,アニミズム (「正邪」) の思考回路が棲みやすいところである。
    これを,科学に変えようとした者がいた。
    ヘーゲルである。
    そしてこれに触発され,経済学を科学にしようとした者が,マルクスである。

    ひとは,「搾取」を「悪者が搾取する」に解釈する。
    マルクスは,「悪者が搾取する」は,化学反応ではないかと考える。
    こうして,「資本」(「商品経済」) の概念にいたる。
    経済学は,マルクスの『資本論』になって,「悪者」がいなくなる。
    翻って,「悪者」を立てるのは,アニミズム (「正邪」) の思考回路だということがわかる。

    しかし,マルクスは,自説を持ち堪えられない。
    「資本主義を倒して搾取を無くす」に進んでしまう。
    これは,「重力場を倒して落下を無くす」と言っているようなものである。
    この思考回路を「マルクシズム」と呼ぶ。
    科学がイデオロギーに堕したわけである。


    「アイヌ学者」は,ここで述べたようなことの教養を欠く者である。
    「系」「ダイナミクス」の考えを持てないアニミズムの者たちである。
    「商品経済」のことばを用いることができている者も,商品経済の意味がわかっていない。
    したがって,歴史を書けば,「和人がアイヌに悪事をはたらいて,こうなった」話になるのみである。

    「アイヌ学者」は,どうしてこのようなのか。
    分野への入り方が,原因である。
    教養をつける過程を省いて専門領域に入ってしまう。

    昔の学者は,教養の重要さを知っていた。
    そこで大学は,教養課程を置き,その上に専門課程を置いた (効果の程は別として)。
    「専門と並行して教養をつける」は,成らない。
    専門で忙しくしてしまうからである。
    教養に振り向ける時間は,専門に当ててしまうからである。

    しかし,いまは学術も,商品経済にがんじがらめになっている。
    「成果の短期回収」で行かねばならない。

    自然科学だと,直接専門課程に入ってもだいじょうぶな面がある──それでも分野によってということになるが。
    だいじょうぶでいられるのは,「規範学」の性格が強いからである。
    人文科学は,こうはいかない。

    そして,「学者」と呼ばれる者は,学術の「劣化」がわからない。
    仲間で自閉しているので,学術の「劣化」が見える契機がないのである。
    これは「悪口」で言っているのではない。
    事実である。

    例えば,「北海道大学 アイヌ・先住民研究センター」のHPを覗いてみるとよい。
    実に屈託なく「アイヌ民族」のことばを使っている。
    「アイヌ民族」が論点であることを知らない──そもそも「論点」の意味がわからない──ので,屈託がないのである。