Up 虚言「アイヌモシリ」 作成: 2017-02-27
更新: 2018-10-19


    「アイヌモシリ」とは,どんなことばか。

    言い出したのは,萱野茂である:
      萱野茂 : <二風谷ダム建設収用地に関する収用委員会審理陳述>(1988), pp.216-219
    その昔、北海道というこのでっかい島を、アイヌ民族が自分たちの土として豊かに暮らしていた時代にどのように呼んでいたかと言えば、「アイヌモシリ」と言っていました。
    「アイヌ」という意味は「人間」、「モ」というのは「静か」ということです。 「シリ」というのは「大地」という意味であります。
    したがいまして、アイヌは自分たちの土をアイヌモシリ、「人聞の静かな大地」と呼び、だれにはばかることなく自由に暮らしていたのであります。
     ‥‥
    北海道をアイヌモシリとアイヌ民族は言いながら、自分たちの土として何不自由なく暮らしていた大きな証拠なのであります。

    「アイヌモシリ」の語の出処は,「Ignacio Morera」である:
      高倉新一郎『蝦夷地』, p.7
     天正十八年十二月、蠣崎慶廣が豊田秀吉に謁見のため京都に上った際には蝦夷を伴っているが、たまたま在京したポルトガルの宇宙学者イグナシオ=モレイラ (Ignacio Morera) はそれらから、蝦夷は蝦夷人によってアイノモソリと呼ばれていること、その北方にはレブンクルという地方のあることを聞いた。
    アイノはアイヌの自称で man の意味、モソリはアイヌ語のモシリで島、アイヌモシリとはアイヌが住む島の意である。
    レブンクルは恐らく樺太を指したものだろうが、レブンはアイヌ語で沖、クルは同じく衆の意で、沖の衆の意である。 今日の礼文島がこの意味である。
    すなわち蠣崎氏の配下に属した蝦夷は、アイヌ語を使い、自らアイヌと呼ぶ人々だったのである。

    松浦武四郎『北海道々国郡名撰定上書(上)』だと,「カイ」になる:
     
    (熱田大神縁起頭書)
     夷人自呼其國曰「加伊(かい)」。
     「加伊」蓋其地名。
     其地名「加伊」 其人鬚長 故用「蝦夷(かい)」字。
     其實 非唯取「蝦」而名之也。
    加伊と呼(ぶ)事 (について)
    今に土人共 互にカイノーと呼(ぶ)。
    女童(おんなわらべ)之事をカイナチー 男童(おのこわらべ)之事をセカチー 又(なまっ)てアイノーとも近頃呼(び)なせり。
    頭書之説 (まこと)()(く)かないたりと言(う)べし。


    萱野茂の言は,虚言である。
    ただし,この虚言は斟酌してやる必要がある。
    萱野はこのとき,引っ込みのつかない立場に自分を追い込んでしまっている。
    引っ込みがつかない者は,苦し紛れの虚言を吐く。


    北海道に暮らしている生物集団は,無数にある。
    北海道は,その生物集団それぞれの国土か?
    それとも,どれか一つの生物集団だけの国土なのか?

    この問いは,滑稽に聞こえる。
    実際,冗談で言っているわけである。
    この冗談の方法は,《「暮らす」と「国土」をイコールにする》である。
    「暮らす」と「国土」をイコールにすると冗談になる。──覚えておこう。

    「国土」は,「国」があってのものである。
    北海道が,北海道に暮らすカラスの集合の国土でないのは,カラスの集合は国をつくっていないからである。
    国をつくるとは,国の体制をつくるということである。
    カラスの集合は,国づくりとは無縁の存在であり,そもそも「国」の概念を持たない。

    アイヌも,同じである。
    国づくりとは無縁の存在であり,そもそも「国」の概念を持たない。
    よって,「アイヌモシリ」にせよ「アイヌモソリ」にせよ「カイ」にせよ,アイヌがこれを「自分たちの国土」の意味で使うことは無い。


    ことばは,文脈の中に存在する。
    「アイヌモシリ」は,いったいどんな文脈で現れるというのか。

    アイヌの生活がどんなものであったか,よくよく想起せよ。
    アイヌの英雄詞曲 (狭義のユーカラ) を,想起せよ。
    アイヌの共同体の単位は,<なわばり>のスケールより大きくはならない。
    実際,なわばりの攻防は,殺戮を以てする。

       川上勇治「コタンの妖刀」, pp.25,26.
     固雪の上を歩くことにかけてはすばらしい速度を誇る三人は、疾風のように十勝原野をめざして走っていた。太陽が空の真中を通り幾分西にかたむいた頃、雪原の彼方にポツン、ポツンと、五、六軒のアイヌ・チセがたち並んでいるのを発見した。三人のアイヌたちは用心してコタンの近くの萱原でかくれて日の暮れるのを待ち、様子を見ることにした。やがて真赤な太陽が日高山脈に沈み日は暮れた。
     ‥‥
     戦いすんで目をやられたアイヌを介抱しようとしたが、時すでに遅く矢の毒が全身にまわり手のほどこしょうもなく息を引きとった。‥‥
     二人はまったく人影のなくなったコタンのチセ全部に火をつけて焼き払い、帰路につくことになった。二人は目をやられて死んだアイヌを胴と足とに切断し、これをめいめいが背負って日勝峠を越えてコタンへ帰って来た。この勇敢なアイヌの葬儀は、沙流全体のコタンから大勢の人々が集まり、三日三晩もかかって盛大にとり行なわれた。


    引用文献
    • 松浦武四郎『北海道々国郡名撰定上書(上)』, 1869
        所蔵:北海道大学「北方関係資料総合目録」
    • 高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 川上勇治「コタンの妖刀」
        川上勇治『サマウンクル物語』, すずさわ書店, 1976. pp.9-28.
    • 萱野茂 : <二風谷ダム建設収用地に関する収用委員会審理陳述>(1988)
        本多勝一『先住民族アイヌの現在』, pp.211-262.