給与地を与えられたアイヌは,これを和人に賃貸した。
自ら開墾・農耕をするのは彼らにとって途方もないことであるから,賃貸を選ぶのである。
実際,われわれとてこれと同じである。
ひょんなことで土地が手に入ったら,この土地を用いて起業しようとは思わず,売ることを考える。
起業するのは,途方もないことだからである。
「アイヌモシリ」を唱え,得た土地で生業をしている自分を想像する者は,アイヌの狩猟採集をしている自分を想像しているのではない。
自分にそんな能力は無いし,したくもない。
想像しているのは,あくまでも現代的な起業である。
このように,「アイヌモシリ」を唱える者は,もともと起業マインドと能力をもっている者──起業家──である。
「アイヌモシリ」を言い出すのは,「御料牧場」返還運動のときの小川佐助のような,起業家肌の者である。
そして,貝沢正と萱野茂は,たしかに起業家肌の者であった。
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菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社, 1966.
pp.123,124
貝沢さんは二風谷コタンに生まれ、この土地に育った。青年のころ、シャモがアイヌにつまらぬ偏見を持っていることにがまんがならなくなって、コタンを逃げだす計画をした。つまり、アイヌの苦悩からのがれるために「アイヌ民族の大陸移動」を実行したのだ。
昭和十二年ころの話だ。貝沢青年は、毎夜のように、コタンの小学校に友達を集めて討論した。
「われわれはアイヌの子に生まれてしまった。どうしたらアイヌの偏見、差別からのがれることができるのか」
いろいろと抵抗や反発もやってみたが、目に見えない大きな圧力は、わずかのアイヌ青年が、いかにもがいてみてもどうすることもできない。当時、満蒙開拓青年義勇軍、日本農民の満州移民団が、続々と大陸めざして移動していた。
「よし、われわれもあの開拓移民として満州に渡ろう。満州には、おれたちを差別扱いするシャモがいない。そこでアイヌの楽天地を築こう」
そんな話が、コタンの青年たちの結論だった。
貝沢青年は、さっそく茨城県内原の加藤完治先生をたずねて、アイヌ民族の大陸移民計画を相談した。二風谷小学校の先生をしていた穂坂徹さん (現在札幌市在住) と二人で、コタンの青年たちを引き連れ日本海を渡った。満州では、シャモもアイヌもない。文字通りの「自由な天地」でのびのびとした気持ちで、クワを振うことができた。「あれが成功していれば、二次三次とコタンからアイヌの青年たちを送り込めたのだが。終戦でだめになり、生きて帰るのがやっとでした」
貝沢さんは、いかにも残念そうに夢におわったアイヌ民族大陸移住のいきさつを話すのだった。
しかし、コタンに帰った貝沢さんは、満州での経験を生かして、新しい農業経営に取り組んだのである。まず家畜を飼って有畜農業、自給自足の農業経営をはじめた。満州で練えた開拓農民精神は、一年二年と実績をつみかさねていった。荒地を開墾して十余年、このごろでは約五十ヘクタールの大農場を持ち、シャモの開拓農家をしのぐ、りっぱな農家になった。
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萱野茂「おのおのが信じた路」
貝沢正『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.279-284
正さんと私は性格も違うし、片や北海道でも指折りの篤農家で、米を千俵も出荷するなど、アイヌ側から見ても尊敬できる方だけに、近寄り難い存在でもありました。私自身は造林人夫を振り出しに、やまご、彫刻、村人、特にアイヌから白い目で見られがちな観光アイヌを、登別温泉ユーカラの里で、昭和三六年から四二年までやっていました。ですから、正さんと私は、沙流川の右岸と左岸を、おのおのが信じた路を歩いていたという感じの二人でありました。
その二人を急接近させたのは私の実弟である貝津末一で、当時、今もそうですが、観賞石というものが持てはやされ、石組合が結成されたさいに、正さんに組合長になってもらいました。それからは正さんという名を呼ぶ者は少なくなって会長と呼ぶようになり、その呼び名は亡くなるまで続きました。
‥‥‥
私自身は夏の間だけ七年間を観光アイヌをやりながら飽きもせずにアイヌの民具蒐集に力を入れ、このまま観光地にいたら二風谷村の先行きは明るいものではないと思いました。足元の明るいうちに村へ帰ろうと思い、昭和42年までで村から出るのを止め、43年に正さんにお願いをして国道沿いに観光みやげ店を建ててもらいました。それが二風谷におけるみやげ物屋の草分けになり、現在も続いているのです。
みやげ物屋があっても見る物がないとお客は来てくれない。そこで私自身が買い集めた物を展示して見せる場所を、ということになって、二風谷アイヌ文化資料館構想が生まれたのです。そこで正さんに建設期成会長になっていただき、寄付集めに奔走し、私の日記によると二人で歩いた延べ日数は60日にもなっています。
建物が出来上がったのは昭和46年11月、12月13日に仮検定が終わり、近所のお年寄り方に来てもらって内輪だけでアイヌ風のお祝いをしました。
‥‥‥
次の年、昭和47年6月22日、二風谷アイヌ文化資料館開館、初代館長貝澤正、副館長萱野茂になったわけです。昭和五七年までの10年間、館長として館の基礎を築き上げてくださり、平成3年夏には、工事中であった現在の二風谷アイヌ文化博物館の建物も見にいってくださいました。
‥‥‥平取町議会議員になっての初仕事は、平取町に利子補給をさせてアイヌの家の建て替えを推進させたことでした。
その一翼をになったのはアイヌの建築屋カイケンこと貝澤輝一で、建てた軒数は平成4年までで51軒ということです。この数字はカイケンの仕事の分のみですが、この制度を利用したアイヌの家は平取町内で100軒近くになるでありましょう。
農協の理事の時代には、アイヌの土地が借金のために農協に取られそうになると、自分の山や畑を担保に入れて信金から金を借り、その金で何人もの土地を本人の手に取り戻させるなどなさったものです。
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二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
pp.233-240
二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40 [1965] 年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。まず、貝沢勝男が長野浅次郎の土地の一部と自分の水田を交換して現在地を手に入れ、当時は一面の湿地帯であったこのあたりに土盛りをして、今資料館前信号機のあるあたりに雑貨店を開業した。
その次に貝沢保が現在軽食喫茶「花梨」の所に「ユーカラ食堂」を開店した。そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。昭和43 [1968] 年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46 [1971] 年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。観光客の増加に伴い昭和48年に二風谷観光センター(静内資本)、昭和49 [1974] 年に民宿「チセ」(貝沢薫) が開業したが、現在は観光センターは休業している。
昭和45 [1970] 年から始まった8月20日のチプサンケ祭りの夜は、毎年この商店街前の広場で懸賞付盆踊り仮装大会も開くようになり、昭和53年には、町の一部補助と各戸の負担金によって商店街前の広場も舗装された。
‥‥‥
二風谷での木彫熊生産は、昭和37年旧生活館に旭川から千里敏美を講師によんで希望者に受講したのが始まりだが、昭和46 [1971] 年には新しい生活館 (現在のもの) ができたため、古い生活館は、第2共同作業所として転用され、ここで二風谷民芸が生産されはじめた。この共同作業所 (昭和50 [1975] 年焼失後、現在地に今の大型共同作業所が建設された) の山手側に、二風谷アイヌ文化資料館が着工、昭和43 [1968] 年には金田一京助歌碑も建設されているところから、国道から資料館に向かう舗装道路入口両側にも民芸品店や観賞石販売店が軒を連ねるようになった。
‥‥‥
アイヌは日用品のほとんどを木や木の皮からつくり、木製用品には木彫、衣装には刺しゅうをほどこす習慣だった。明治になって資本主義経済が北海道にも本格的に流れ込み始めると、明治26年(1893年) 貝沢ウエサナシ (貝沢正・与一・辰男・青木トキ兄妹の祖父、貝沢みな子・定雄・隆司姉弟の祖父、貝沢耕一の曽祖父、霜沢百美子の外曽祖父)、貝沢ウトレントク (貝沢勉・薫・美枝兄妹の祖父) がクルミやカツラ材でアイヌ文様を彫り込んだ盆や茶托を作り札幌で販売しているが、これが二風谷民芸品の始まりといっていい。ウトレントクは大正3年(1914年)、ウエサナシは昭和14年(1939年) に亡くなったため,その後は貝沢菊治郎がパイプの製作・販売をするくらいで、自分たちの伝来の技術を生かして金に換えようと考える者はいなかった。
その点に着目したのが萱野茂である。昭和20年代には、全国の小学校生徒にアイヌの生活や踊りを見せる巡業に村人を引率参加して、北海道以外の人々の生活や観光地を垣間みて歩きアイヌ民具が高く売れることを知って、昭和28年頃から自らカツラやクルミで茶托やお盆の製作に着手し、その後の二風谷アイヌ民芸、アイヌ観光の先鞭をつけた。
‥‥‥
このように幕末から明治時代にかけて、すでに婦女子の仕事として現金収入の中にアットゥシ織は大きな位置を占めていた。
明治28年生まれの貝沢へかすぬなどもシナ皮をとってきでは織り、カロップ (火打ち道具などを入れた小型の袋) に加工しては売っていた。
専業に織って販売網を広げたのは、貝沢はぎ、貝沢みさをで、昭和20年代末からは旭川市の民芸社が大量の買いつけをするようになってきた。
やがて昭和30年代後半から民芸品ブームが起こり、造りさえすれば何でも売れる時代が来た。これといった現金収入がなかった村では今まで女の仕事だったシナ皮取りが男の仕事になり、糸をつむぐもの、織る者と二風谷を中心にアットゥシ織が大量生産され、婦女子は夜も寝ないで働いた。二風谷の暮らしがよくなった基礎は、アッ卜ゥシと婦女子の力によるといっても過言ではない。
原料になるシナ皮の木を近辺でとりつくすと馬車や車で遠くまでシナ皮はぎに出かけることになった。シナ皮をはぐ期間は夏の間のわずかの期間でしかないが、木の皮が全部むかれると木が枯れてしまう。昔はどこの山でも自由にとれたが、木の皮は一部しかはがなかったので、木が枯れることはなかった。しかし、現金収入の道に血まなこになる時代になると昔の信仰──はいだ木の着物に帯をしめ供物をささげて感謝する風習──は忘れられ、木の身ぐるみをすべてはいでしまったので、国有林には白く皮がはがれたシナの木が目立ちはじめ盗伐問題が起きて来た。振内、厚賀、鵡川の各営林署から平取町役場に抗議がくるようになった。二風谷を中心とした人々の生活の問題でもあり、町としても放置できず対策がすすめられた。
昭和44 [1969] 年10月「アツシ織生産組合」が設立され、組合員は他人の山でシナ皮を取らないこと,皆伐の山を世話してもらい共同で原料のシナ皮を確保することを申し合わせた。
賛同者は94人で、設立総会で組合長二谷貢、副組合長貝沢ハギ、貝沢しづ、庶務会計黒田浪子を選んだ。損害を与えた山の木の代金として、12万5千円の特志寄附を集めたら、合計23万5千円が集まり、木代金を払った残りを組合の運用資金とした。
町役場と連絡を取りながら皆伐予定地の山で、木代金を払って共同採取をするようになった。以来盗伐はなくなったが、しかしアツシ原反の売れゆきは落ちこんでしまい、各家庭から聞こえたハタ織の音は消えてしまった。
今は、国道沿いの民芸品店の店先で実演販売されていたり、年輩の女性の冬期作業で織られた製品が店先で花びん敷などとして切り売りされている。
‥‥‥
昭和30年代末には沙流川の石が観賞石として注目されるようになり39年から貝沢末一、貝沢留治らが専業販売し始めた。なお二風谷から初めて販売された石は、昭和32年に登別温泉玉川商店のチセの前に飾られたものである。
昭和39年1月には「日高銘石保存会」が設立され (会長貝沢正、会員発足時15人。昭和43年20人)、庭石、鑑賞石の採取と加工販売をしている者が中心となり、木彫りや土産品店を業とする者や石の愛好家が加わって、会員の親睦や原石の払下げ、加工技術の研究や道内道外市場の開拓などを行なった。
昭和39年2月には、萱野茂・貝沢末一兄弟が二風谷の石を初めて津軽海峡を渡らせ、つてを頼って東京都世田谷区役所のロビーで展示即売会を開いて純益27万円をあげた。この利益は、二風谷部落会に寄附され、当時行なわれていた二風谷小学校の給食費3年分に充当された。
このようにして先鞭をつけられた沙流川観賞石の販路は、昭和47年には本州向けが8割を超えるようになり、トラックによる庭石庭先訪問販売を業とする者も増え、都市郊外農家の造園ブームが起こった昭和45年頃からは庭石と庭木を組み合わせた造園技術を体得した者が造園業に手を拡げていった。
昭和53年に開場した二風谷ファミリーランドの石庭は、ニ風谷の八香園 (代表貝沢守雄・貝沢留治) が造園したものである。
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『対談「アイヌ」』日高文芸, 第6号,1970.
(『沙流川―鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995, pp.153-215)
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pp.187-190
つまりいい、今になって考えると、あれが、現在の代表的アイヌ部落誕生の動機じゃなかったかっていうこと──。
終戦当時は、占領軍というか外国人が多く日本各地の名所巡りをするわけだ。
このアイヌ部落のすぐ近くには有名な温泉地があり、接収された外人専用の大ホテルもそこにあったからね。
そのいわゆる外国人たちの近内視察というか、観光的なコースのなかにね、スラム化していた少数の民族アイヌ入居住地が繰り入れられた‥‥。
で、いつの間にか、それが外国人を案内して来ていた日本人、つまり大和民族、すなわち今日のいう和人たちの訪れるところとなっていく‥‥‥。
で、そういったことでさ、この町内のとある地区がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。
なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。
そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。
つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。
何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。
だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。
今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。
「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。
僕はね、つねにこういった観光見世物には批判的なんだ。
そのことで、さっき、ハヨピラの円盤施設に一人でのり込んだとき、危く倒れそうになったといったろう。
( 「ハヨピラ」)
誇張でもなんでもないって──。
人混みのうしろから、アイヌたちのいる催場を見たときね、実は僕のおふくろもそこにいたんだ。
僕は当時入院していたからね、おふくろとの連絡がついていなかった。
おふくろにも案内があって、出席していたんだろう。
その今年六十になるおふくろがね、いつも、この町内には、○○さんも、XXさんも、△△さんも、偉いアイヌがいっぱいいる。
なんで、お前ばっかりそのことに反対する。
見世物がそんなに悪いことなら、あの人たち〈町議・その他有力者) は黙っていまい。
お前がそんなことを言うから、なにかでお金を貰えそうな催物や見世物にも誘ってもらえない──と、愚痴るんだ。
そのようなおふくろにね、僕の考えを一から十まで説明するとしたら大変だからね。
アイヌ語だとか、たとえば初めて誘われて観光地へ行ったときの状況などね、訊ねるだろう──。
すると、息子は、とんでもない反社会的なことを考えている、と不安がるんだ。
確かに、そういうドグマチズム的傾向があるかもしれない。
ハヨピラの円盤施設一つを見ても、そうだ‥‥‥。
しかし、僕は、何も根拠なく反対しているんじゃない。
──日本語もしゃべれなかった式でね、シャモどもをふんだまかす、適当なことをやっちゃいかん!というのだ。
アイヌ古来の風俗儀式なら、アイヌ独自の婆でやるべきだ。
それを、なぜ観光に結び付けるのか──とね。
僕のこの考えは、「理想論」だと彼たちに一蹴されたよ。
つまり「どうせやるんなら、金になったほうがいいだろう──。
生きるためには仕方ないのだ」──とね。
彼たちに言わせると、アイヌには立派な文化があるそうだ。
叙事詩のユーカラもそうだし、その他の踊りなどね──。
それを具体的に質すと、あの先生もこう言っている,この博士もこう書いている、と、それらの著書を山ほども目の前に積まれたことがあった。
なぜ、彼たちは自分の言葉を持たないのかね。
しかもこの地区には、アイヌ系住民として、自らの風俗や語学を調べている "アイヌの第一人者" がいる。
先のアイヌ語学者○○○博士が、テレピ対談などで、そう折紙をつけているんだから間違いないだろう。
つまり、現代では、彼を措いてほかにアイヌの伝統を継ぐ者はいない──という人物だ。
確かに道内のアイヌ観光に対しての大きな影響力も彼は持っている。
ね、そういう人物がいながら、ようやく貧村、不良環境地区という汚名のなかから這い上がった新生聚落を、なぜふたたび嘲りの対象地に落とすのか!
──。
少しは地域を歩き、一般住民の声にも耳を傾けるべきだ。
○ |
背はのう、わしらが働いとるとき、アイヌさんはよう焼酎壜を枕に、道路に寝とったもんだ。
それがのう、今では踊って暮せるちゅうから、ええもんじゃ──。
(七十二歳・農業)
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○ |
教室の中では、差別的な教育は一切していない。
それなのに、教室から一歩外に出ると、もう口も開けないような雰囲気を何故に作るんだ──。
(三十九歳・教員)。
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○ |
果して、真のアイヌ文化なり、民族なりというものを、理解してもらうためにやっているのか、どうかという疑問にぶつかる。
そもそもああいうあたりからも、問題点が出てくるような気がする。
アイヌだとか、和人だとかいうことなしに、お互いに生きようと努力している。
それだけに、アイヌという人たちにも考えてもらいたいと思う。
(三十五歳・農業)
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観光地を訪れてね、まず不愉快に思うのは、あのみやげ店のポン引まがいの呼込みと、こけおどしの木彫などをしているマネキンだ──。
しかも、ああいったことが、純然たるアイヌ部落をキャッチフレーズにしたこの土地でも行なわれようとしている。
せっかくね、"アイヌ人の第一人者" がいるのなら、その人物を中心にした独自性こそを売物にすべきだろう。
そういったことを狙いとして、数年前から外人医師のいた西洋館を復元してみたり、アイヌ歌人とかの碑を建てたりはしているようだ。
しかし、ね、しかし、そのアイヌ部落の中心地に、先のアイヌ語の大家○○○博土の歌碑を建ててまで和人に媚びる必要もあるまい。
アイヌあるが故に、名誉教授という称号までもらって、○○○博士はもう十分に称えられているんだ。
しかも特別に、あの地区に、記念すべき何物もないはずだ。
むしろ、この博士に、生涯をかけたユーカラノートを捧げた金成マツの銅像こそを、われわれアイヌ自らの手で建ててやるべきではないかね──。
もっとも金成マツにとっちゃ不本意なことだろうが、観光に利するなんて‥‥‥。
アイヌ研究学者の労を頭っから否定したくはない。
けれどもいい、何々教授、某某博士という学者研究者の下に、現在、T病院に入院中のお婆ちゃんのような顧みられない多くの先祖があったということ、このことを彼たちは自分の立場でよーく考えて見ることだ!
それにもかかわらず、資料館とかいう亜流化をくむような計画を立てたりして、誇りうるというアイヌ文化を、どのように今後伝達していくというのだ。
某地にある資料館に行って一日立って見るといいい。
はたしてね、あのおびただしい観光団のうち何%があの展示物に目を留めるか──だ。
バカなシャモどもをふんだまかす、などといっていて、ここ五年や十年は、アイヌという貧相さを売物にした形の何か真似事はできるだろう。
まだ、明治時代の人々も生き残っているから‥‥。
でも、そこから先ね、「アイヌ語もわかりません」などと言っていて、どう観光というもののうえに、真のアイヌを描こうとするのか──。
しかも今のうちから、民芸製品の原料不足という状況から、盗材という刑事事件にまで追いやられ、あがきの果てに、アイヌという名を付けるにはあまりにも情けない、いかがわしい木彫製品までもこの地区から出回っている!
彼たちのみがアイヌ!という名を持っているのではないはずだ!──
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