貝沢・萱野の「アイヌモシリ」論がどの程度のものかは,彼らがこれを論拠にどんな要求を出すかで,量られる。
貝沢では,つぎのようになる:
|
貝沢正「三井物産株式会社社長への訴え」(1991)
『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.186-194
pp193-194.
以上に述べてきたような経過で三井は日高沿岸の木を伐りつくしてしまいました。
前にも書いた三井の信条として「儲けるために社会を犠牲にしてはいけない」などとうまいことを言いましたが、明治末期から昭和にかけては、北海道を植民地として略奪をほしいままにしたのです。
沙流川沿岸の広葉樹は200年、300年単位でなければ用材として用を成しません。
それを小径木まで伐採した罪は大きいと思います。
しかも、伐った跡地を自然のままに撫育するのなら200年後に復活するかも知れませんが、人工林で針葉樹に金をかけて植林する愚を繰り返しています。
税金のがれの目的で保安林に指定させたり、造林には金をかけないため農林中央金庫からの低金利融資を得たりして、かつてのような略奪林業ほどボロもうけはできないので三井も苦労しているようですが、ここで本来の真の地主たるアイヌとして次のように直訴いたします。
一番よい方法は、搾取しつくしたこのあたりで三井の山を地元のコタンに住んでいるアイヌに返すことではないでしょうか。
罪域ほしの最高の方法と思ってここに忠告いたす次第であります。
返されれば、私たちアイヌは共同で管理して、かつてのような真の自然が保全されるような山にもどす方向で、人間が共存できる利用をしていくでしょう。
‥‥‥
|
|
上の作文において,貝沢は住民の代表になっている。
そしてこの構えで,「コタン」「北海道アイヌ」「山の共同管理・自然保全・人間共存」を言う。
貝沢は,地元をコタンと定める者である。
貝沢は,地元の員を北海道アイヌと定める者である。
この貝沢が地元の「代表」をパフォーマンスするとき,二風谷の住民はつぎの者になる:
自分の地区を「コタン」と定める者
自分たちを「北海道アイヌ」と定める者
「山の共同管理・自然保全・人間共存」を自分たちの事業と定める者
実際,「アイヌモシリ」は,「コタン」「北海道アイヌ」「土地の共同管理・自然保全・人間共存」が条件である。
そして,地域住民が自分の地区を「コタン」と定め,自分たちを「北海道アイヌ」と定め,「山の共同管理・自然保全・人間共存」を自分たちの事業と定めている (ように見える) ところは,二風谷のほかには無い。
「アイヌモシリ」のことばは,二風谷でしか活用できない。
しかし,「代表」をパフォーマンスするこのときの貝沢は,二風谷の員の代表であるわけではない。
貝沢が「代表」を勝手に自任しているだけである。
ひとはそれぞれ自分の生活に目一杯である。
「山の共同管理・自然保全・人間共存」を自分たちの事業として負う者ではない。
山をもったときは,世話などできないから,業者に賃貸・売却するだけである。
かつての「給与地をシャモに奪われる」と同じことをするだけである。
言うまでもないが,自分の地区を「コタン」と定め,自分たちを「北海道アイヌ」と定めるのは,二風谷住民の総意ではない。
二風谷の住民も,多様である。
|
二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
pp.324,325
計画が樹てられて五年、どうにか出来あがりました。その間には「俺などはとても書けない、誰かがやるだろう」と関心を持たない委員も居りましたが、よい部落史をつくるためにと部落の皆さんのご協力をいただきました。
一部の方で取材を拒否した人もいて残念に思っていますが、担当した委員の説明不充分でご理解をいただけなかったことは委員長の不徳によるものと深くおわび申しあげます。
長い間には意見の対立もあり,一時は投げだしたこともありましたが、部落の皆様には「兎に角やって見ろ。余り注文をつけないから」と激励され思い直したこともありました。
やっとお手元に届けることができ、ご批判を賜りたいと思います。
pp.284,285
貝沢福市
二風谷の歴史の編纂計画は聞いているが、どうせ歴史とはきれいな所だけで、功罪を正しく伝えないだろう。
例えば町会議員として地域発展につくしたと書くと思うが、実際は町民のために何をやったのだ。俺はそれが気にいらないので協力もしないし、もちろん参加もしない。
俺が言いたいことは、大分前のことだがあるエライ人が「二風谷アイヌは勤労意欲がない。だから貧乏している」と言ったことがある。この人以外の一般の人もそう思っている。
昔二風谷のアイヌは、開拓使が農耕の指導をした時にはよく働き暮らしも楽であった。明治31年の大水害の時に流失した畑147町歩と記録されている。当時の戸数54戸で割ると一戸平均2.8町も畑を作っていた。
大正4年平取下流が造田化され、二風谷地区に頭首溝をつくった。導水のために沙流川をせき止める堰堤を造った。
ニ風谷の悲劇はその時から起こったんだ。
水害の度に二風谷の畑は流され、大正11年の水害では復旧をあきらめて、畑は女に委せ男は出稼ぎに出るようになった。
奥地の乱開発と王子製紙工場の原料丸太の流送によって耕地は決壊し、せまくなって行った。
大資本が太り、下流の水田農家が豊かになると反対に二風谷の農民は貧しくなって行ったんだ。そういう図式に目をつぶってよくも「働く意欲がない」と決めつけたり、自らの政治力のなさをアイヌに転稼したものだ。エライ人が一度でも王子製紙や下流の水田農家に抗議したことがあったか。
王子製紙は平取まで散流、平取からは筏で富川まで下げた。二風谷を無視したことになる。王子は補償の意味か川向へワイヤロープのつり橋をかけたが、風で飛ばされ利用できなかった。
下流の水田農家は小学校を出たばかりのアイヌの子供を雇いや子守に安い賃金で使ったり、戦後は米1俵と大豆3俵を交換して、大豆は代替えで出荷し3倍も利益をあげていた。春食う米を借りて秋穫れた大豆を出したのも二風谷の農家だった。
このように何の役にもたたない指導者をほめたたえる歴史は反対だ。
|
|
また,貝沢正は,<シャモ攻撃>を言動の形にするようになってから,虚言をやるようになる。
これはイデオロギーに嵌まる者がどうしても身につけてしまうものであり,当人は無自覚である。
「三井物産株式会社社長への訴え」(1991) の中で
|
返されれば、私たちアイヌは共同で管理して、かつてのような真の自然が保全されるような山にもどす方向で、人間が共存できる利用をしていくでしょう。
|
|
と言っていながら,同年のインタビューで,つぎのように言っている:
|
貝沢正「アイヌモシリ,人間の静かな大地への願い」(1991)
『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.247-276.
pp.261,262.
「開発」というのは自然破壊だからね。ちっともよくない。
アイヌにすれば。昔は豊かではないけれど精神的な豊かさは持っていたわな。食うことの心配はないだろうし、仲間同士の意識もはっきりとつながっていただろうし。
ところがこの私有財産制というのを押しつけられて、今のアイヌは変わってきているんでないだろうかな、残念ながら。
自然保護する、自分の周りをよくしようなんて考え方がなくて、やっぱり、なんちゅうかね、シャモ的な感覚に変わってきた。
もっと悪いというのは、教育受けてないから教養がない。
例えば萱野(茂) さんと主張しているダム問題にしたって、理解してもらえるのは (アイヌではなく) むしろシャモのインテリの人でしょう。
チフサンケ (舟おろし) のお祭りにしたって、二風谷の祭りでなくよその祭りだって言われてる。
二風谷の人が何割かしか出てないんだよ。
どこかやっぱり、表だっていう事に対して反感が地元にある。
昔のアイヌというのは、例えば門別の奥だとか、鵡川の奥あたりでも不幸が出たら、必ず悔みに行くんだよ。
コタンから一族郎党引き連れて、三日ぐらいかかるんだよ。
お祭りがそうだし、お祝いがあったってそうだし。
そういうつきあいだけでも、働く暇がないくらいさ。
だから感心しているんだけども、萱野さんは、親父に連れられて、歩いていろいろ勉強した。
私の父親あたりは、軍事講演があれば息子を連れていくくらいだった。
それだけ育ちが全然正反対なんだよ。
|
|
|