Up 「天真爛漫,稚児の様」 作成: 2017-02-08
更新: 2017-02-08


      知里幸惠『アイヌ神謡集』, 1923.
    「序」
     その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
     冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久にさえずる小鳥と共に歌い暮してふきとりよもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とるかがりも消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.‥‥‥

    これは,何の表現と言ったらよいのか。
    アイヌを美化しないではいられない倒錯した心──これの表現である。


    ひとが邪な心をもったり,ひとがひとを虐げたりすることは,漁猟採集生活/共産制社会でも変わりはない。

      川上勇治『増補版 サマウンクル物語』, すずさわ書店, 2003.
    「鬼婆々に育てられた娘」, pp.276-282
     私の育ての婆さんは、ものすごく厳しい人で、私は物心つく五・六歳のころから、炊事用の水くみでもなんでも、大きな声で怒鳴られながら使われていた。‥‥‥私はどうしたら良いのか本当に困って、いつも陰の方で泣いてばかりいた。 そして何よりひどいのは食べ物の差別だった。 私の使う食器はひびが入ったお椀や欠けたお椀で、食べ物は家族の食べ残しばかり。犬より粗末な扱いだった。 着物も兄たちが着古した、ぼろぼろのものばかりで、私は毎日泣き暮していた。
     そんな私もだんだん大きくなり娘らしくなった、ある秋のこと、私を育てた意地悪婆さんは、‥‥‥言った。 「明日お前の兄たちが舟に乗って鮭の漁に出かけるが、お前も兄たちと一緒に行きなさい。兄たちを手伝って、食べる仕度やいろいろな仕事そしてやってくれ。」そうして私は兄たちの漁についていくことになった。
     ‥‥‥
    兄さんは、「お前はこんなに優しいいい娘なのに、おふくろはどうしてお前がにくいのだろう。この漁に出るときに、俺はおふくろにお前を連れていって川に突き落として、水におぼれさせて殺してくれ、と頼まれて、お前を連れてきたんだ。だけど俺たちはどうしても可愛いお前を殺せないよ。明日家へ帰るから、お前も一緒に帰ろう。おふくろのおみやげに、たくさんの干鮭をお前が持って帰れば、おふくろも機嫌を直してお前者殺すなんて言わないだろう。」
     ‥‥‥
    家の中から、婆さんが驚いて出てきた。 息子にこの娘を殺してくれと頼んだのに、生きて帰って来たのでびっくりしたのだろう。 私の顔を見たとたん、婆さんの顔が変わった。 鬼婆々になって、「お前が持って来た魚なんか食いたくない。この死にぞこないめ。生きながらえると思うなよ。俺が殺してやる。」と言って、私の髪の毛をつかまえて、振り回し始めた。
     ‥‥‥
     私を救ってくれた男は私の生まれたコタンヘ行って、私の出生の秘密を全部調べてくれた。 私の両親は、シヌタツカというコタンに住んでいて、漁場の親方に信用され、使用人二・三十人と一緒に立派な家に暮らしていた。 ところが使用人の中に裏切者がいて、ある日突然一家全員皆殺しにされてしまった。 次の朝、家の屋根から煙の出ていないのを不審に思ったコタンの人たちが家の中へ入って見ると、家族全員殺されていたのだという。 その中で生き残っていた生まれて間もない女の子が私であった。
    一人生き残った私は、あの意地悪婆さんに引き取られた。 婆さんも最初の頃は私をとても可愛がってくれたが、自分が生んだ末娘が成長するにつれて私をうとましく思い始めたのだろう。 婆さんの娘は、私と同じ年で、気の毒なほどみにくい女の子だった。 まわりの人々は何かと言えば、その娘と私を比較して私ばかりをほめたので、婆さんは自然に私を邪魔者扱いするようになったらしい。
    さらに私を救ってくれた若者は、私の生れ故郷、シヌタツカコタンへ出かけて行って私の父母を殺害した犯人をつきとめて、皆殺したので、お前の仇は討つたぞ、と言ったので、私は泣いて喜んだ。
     ‥‥‥

      川上勇治『増補版 サマウンクル物語』, すずさわ書店, 2003.
    「石狩コタンヘ養子に行った弟」, pp.283-290
     昔、石狩川中流のコタンに、父母と息子二人の家族が住んでいました。 二人の息子が物心つく年ごろになると、父はいつも「石狩プト(河口) のコタンの村長が、家へ毛皮を買いに来るたびに、お土産にたくさんの宝物をくれたので、今では俺は、このあたりにはないような物持ちになった。その村長に、家の息子二人のうち、兄か弟のどちらかを自分のむこ養子に欲しいので、子供たちが成人したら、ぜひ一人を石狩コタンの自分の家へ寄乙して欲しいと頼まれていたが、お前たちどちらか石狩コタンへ行ってくれないか。」と息子二人に言っていた。‥‥‥
    兄は強く反対した。‥‥‥
    あまり強く兄が反対するので、特別父親思いの弟は、「兄さんが行かないのなら、俺が石狩へ行ってもいいよ。」と父に言った。‥‥‥
    弟は石狩まで送っていく兄と一緒に、大勢の村人に見送られてコタンを後にした。 ‥‥‥
     兄は弟の家が出来上がって、チセノミという新築祝が終わってから、自分の故郷のコタンへ帰ってきた。‥‥‥
     しばらく猟を休んでいたので、兄は猟に出かけた。‥‥‥
    兄は、明日は家に帰って村人を頼んで熊の毛皮や肉などを運ばなければならない、などといろいろ思案しているうちに、うとうとと眠りに入りかかった。 すると不思議なことに目の前に安置してあった熊の頭骨がしゃべり始めた。 「早く行かないと、石狩コタンのお前の弟の命が危ないぞ。早く行け。」‥‥‥
    兄は急いで旅仕度にかかった。 クチヤチセから飛び出し、暗闇の中を石狩コタン目指して走り始めた。
    村長の家へ行ってみると、家の中から人の話し声が聞こえる。 村長と村長の娘、つまり弟の嫁になったばかりの女との話し声であった。 もう安心だよ、あの人は死んだよ、とか、そうか、それはうまくやったな、それは良かった、と言うのが聞こえてくる。
    それを聞いたとたん、兄は家の中へ飛び込んでいき、村長の長いひげをつかんで振り回した。
    そして、「お前たち二人で俺の弟をどうしたと言うのだ。死んだ、とか、うまくやった、とか言ったが、弟はどこにいるんだ。」と怒鳴りつけると、村長は平身低頭して、どうか命だけは助けて下さい、と謝り、「あなたの弟は若いけれど大した男で、物凄い雄弁家で、将来私をしのぐ大物になる男と見た。私は私以上に偉くなったり成功したりする者は好きでないんだ。そういう者が私の身内にいるというのは好ましくないので、娘に命じて毒酒を飲ませて殺すように指示したんだ。私が悪かった。どうか許して欲しい。」と言った。
    ‥‥‥

      川上勇治『サマウンクル物語』, すずさわ書店, 1976.
    祖父(エカシ)ウパシクマ(昔話)の思い出」, pp.147-163
    pp.148-153
     昔、十勝にスネアシというアイヌがおった。 このアイヌの妻はカベカレという名で、二人はいたって夫婦仲睦まじく、数人の子宝にも恵まれた。 また、彼はイソンクルすなわち猟上手であったので、食物などに何不自由なく平和な生活を送っていた。
     その頃──多分徳川時代の初期あたりのことと思うが──から沙流のアイヌと十勝のアイヌと交流があったものか、沙流川のシウンコツのハルンカという男がスネアシと懇意になり、十勝にでかける度にスネアシを訪ね寝泊りしていた。 また、ハルンカはそこを根拠にして狩猟を続け、獲得した獲物をスネアシに預けておき、いったんシウンコツへ帰ってから何日か経て、コタンの人々を何人か連れ、預けたたくさんの獲物を運びに行った。
     その頃は沙流川伝いに、今の日高山脈の麓まで行って、さらに獣の道の峠を越え、今の清水町へ下っていったものと想像されるが、片道多分三日くらいかかったであろう。 そして、ハルンカらは往復一週間くらいかかる道を沢山の荷物を背負い、毎晩野宿しながら大変な苦労をして通い続けたわけである。
     ある年の秋、また例年のようにハルンカはスネアシのチセに寄宿して、狩猟に励み、牝鹿十頭をとり、貯蔵に適するように加工をしてそれをスネアシに預け、コタンへ帰った。 ところが、その後幾日も過ぎ雪が積もるようになっても、ハルンカの一行はスネアシのところへ荷物をとりに行かなかった。
     運悪く、その冬は十勝地方が何十年来なかったような寒気と豪雪に見舞われ、スネアシは猟に出かけることもできず、食料の貯えが日ましに少なくなっていった。 晴れた日を選び、雪の多い寒い山野を歩きまわり、少しでも多く獲物を得ようと努力はしたが、あれほどたくさん山野をかけめぐっていた鹿の群も、暖い日高地方へ移動をしたのか、ほとんど姿が見えず、なに一つ猟のない日が続いた。
     さすがのスネアシも困ったがどうすることもできなかった。 こうした状態をアイヌは「ケカチ」といった。多分それは凶猟ということだろう。
     スネアシの妻も、食料が日ましに欠之してくるので、日に二回食べるものを一回にしたり、またいっぺん煮て食べ残しであった鹿の骨などをもう一度煮てスープを作ったりして食料不足を我慢していたが、食べ盛りの子供たちが日ごとに栄養失調になっていく。 それを見てスネアシ夫婦は泣きながら、「アイヌはいかに困っても他人のものに絶対に手をつけてはいけないという厳しい掟があるが、このままの状態が続けば子供たちが餓死することになる。 自分たちは死んでも仕方がないが、せめて子供たちは成人するまで生き長らえさせてやるのが親としてのつとめだ。 ハルンカに合わせる顔もないが、あの鹿を一時借用しよう。」と相談し、預かった鹿十頭で春雪が消えるまで命つなぎをすることにした。 この鹿は秋にとった鹿なので非常に肉質も良く、少量食べても栄養は充分とれ、やせていた子供たちも日一日と元気をとり戻した。
     こうして二月も過ぎ三月の半ば頃になって、ある日突然ハルンカがコタンの者たちを沢山連れて、固雪の上を歩いてスネアシのチセに訪れてきた。
     アイヌたちは固雪の上を歩くのにものすごく足早に歩くことができる。 一日数十里の道を歩いたという話を聞いたことがある。 例によってスネアシは丁重にハルンカをチセすなわち家の中へ案内し、上座に座らせて、アイヌ式の挨拶をした。 ハルンカもしばらくのご無沙汰の挨拶をし、その後おもむろに預けた品物を受取りにくるのが遅れた理由を説明し、実は本日品物を受け取りにきたので引き渡して欲しい旨申し述べた。
     そのことで毎日頭を悩ませていたスネアシは、今日までの事情を説明し、やむをえず勝手に借用して申し訳ないが、春になり鹿猟ができるようになれば倍にして返すから勘弁して欲しいと辞をつくして謝罪した。
     驚いたのはハルンカであった。 せっかくこうしてわがコタンから人を頼み荷物を運搬するべくきているのに、それでは困る、スネアシのような正直な人なら安心と信用しておったが、絶対に許すわけにはいかぬ、とものすごい剣幕で怒りだした。 こうして二人のウコチャランケ (お互いに談判すること) すなわち口論は三日三晩も続いたという。 それでも結局ハルンカはこの十頭の鹿の代償として何一っとるものがないので、スネアシ夫婦と子供たちを永久にハルンカのウッシューすなわち召使いとすることにし、ハルンカの住むシウンコツのコタンへ連れて帰ることになった。
     正直者のスネアシ夫婦は、泣く泣く自分のチセに火をつけて焼き払い、身のまわりのものを子供たちにも背負わせ、幼い子供の手を引き、ハルンカたち一行の後からとぼとぼと歩いてついて行き、峠の上から自分のイオル (狩猟の場所) を振り返り振り返り十勝を後にした。
     ニ晩ほどの野宿を終え、スネアシ夫妻と子供たちを含めた一行は無事にシウンコツのコタンに到着した。 早速、ハルンカの物置小屋に住むようになって、スネアシ夫妻は主人ハルンカのため一生懸命働くようになった。 正直者のスネアシ夫妻はコタンの人たちに同情され、慕われるようになったが、ハルンカは相変らずスネアシ一家に冷たく、毎日毎日無理な仕事を押しつけていびっていた。 それでもスネアシは、自分たち一家はアイヌのイレンカ (捉) を破ったのであるから、ハルンカにどのようにつらい思いをさせられても文句を言えぬ、と毎日毎日一生懸命働いていた。
     こうして何年かたった。 子供たちも段々大きくなり、一番上の男の子が二十歳になってもスネアシに自由が与えられなかった。
     ‥‥‥
     ある冬の寒い目、スネアシは主人ハルンカの用事でハエ(豊郷)の浜まででかけた。
     ‥‥‥
     スネアシが帰っていないということでコタンは大騒ぎになり、総動員でスネアシの捜索が始まり、まもなく彼は凍死体で発見された。 チペシコッの窪みの真ん中あたりの深い雪の中で、うずくまるような姿で死んでいたということである。
     スネアシ一家の嘆きは非常に深いものだった。 コタンの人たちも同情して、スネアシの葬儀のため大勢の人たちが集まった。 そうして、人々は口をそろえてハルンカを非難した。 「ハルンカの仕打ちは無理だ。スネアシは何年もハルンカに忠実に仕えており、鹿の代償はもう済んだはずだ、可哀相だからスネアシの子供や妻をハルンカから解放してやろう」 ということに相談がまとまり、これからはお前たちが自由に漁猟をしても農耕をしても良いというオッテナ (首長) の許しも出た。 スネアシを失った悲しみはあったが、彼の妻や子供たちにもやっと幸が訪ずれた。
     ‥‥‥