Up 最上徳内の義憤 作成: 2016-11-27
更新: 2016-11-27


    体制の理不尽に対する憤り,これが「義憤」である。
    体制が変われば,「義憤」の内容も変わる。

    「同化」が体制であるとき,「同化」に憤ることが「義憤」になる。
    「同化禁制」が体制であるとき,「同化禁制」に憤ることが「義憤」になる。

    「義憤」は,相対的である。
    相対性を知らない者は,「義憤」を絶対性にする。
    これが「イデオロギー」である。
    相対性を知る者は,「義憤」につかない。
    これが「科学」である。


    松前藩は,アイヌ同化禁制を政策にした。
    政策があれば,これに義憤する者がある。
    最上徳内は,そのような者の一人である。

    以下は,つぎからの引用:
      須藤十郎編『蝦夷草紙』MBC21/東京経済, 1994

     
    pp.59,60
    天明丙午年(一七八六) の夏,予東蝦夷地島々を先駈(さきがけ)せし時、日本人は予一人にて夷人に交わり蝦夷言にも未熟なれば、フリウヱンと言(う)夷人(が)日本言を少し知りたれば、此を予が僕とし同伴せり、
    此夷人文字を学びたき由、願いける故、平仮名のいろはを教えける‥‥‥
    ‥‥‥
    夫より松前に帰着し、滞留の内、折々物を書せければ 此事自然と風説になりて領主へかくと聞えたれば 夷人に文字を教え或は日本の言語を示す事は古来より製[制]禁なり、其科(そのとが)予に有て松前家より(おおい)(あくし)みを受たるこそ是非なけれ、
    蝦夷国今は既に開国のときに熟したれば程なく良国とも成べきなれば 松前家より憎みたる事も解すべし、
    其製[制]禁の品々を(きく)に 皆仁道に齟齬して大に国民等の害となる事のみ数多あり
    彼是共に得て書に著さんと思う所なり、
    前章の如く人道を製[制]禁あるといえども 近年魯斉亜国の赤人数多渉海し彼国の法令を示し撫育教導すれば 土人等大に懐てオロシヤ国(の)風俗に化すれば 何程松前家にて製[制]禁すとも 大国なれば行届くことあたわず
    俗に言(う)大海を手にて防ぐとは是を言(う)べし、
    開国の時至りたると思わるる所なり、
    予も日本の生を(うけ)たる者なれば 前後の弁別もなく義にせまりて(しる)すなり。

    p.67
     疾病は中国夷狄(いてき)の差別もさまで有まじき事なるに 我邦と蝦夷人の(おおい)に異なるは如何ぞや、
    是皆松前領主の法令の然らしむる所なり、
    (すべ)て夷人、臼本の言語をつかう時は通辞令に(そむき)たる罪みを責め 遂に過料を出して罪を償うなり、
    或は蓑笠(みのかさ)を着し草鞋(わらじ)脚当(はばき)を履けば 又前章の如し、
    兎角(とにかく)日本風俗に化し染ぬ様にとするは 松前家の政なり、
    故に跣足(はだし)にして巌端(いわのはし)樹篠叢(きだちのなかくさむら)をも(いと)わず奔走し 頭髪は露、雨霜に濡瀝(ぬれ)し 屋に帰りても沫浴すると言(う)事もなく 誠に禽獣に異ならず、
    然れども元来同じ人間なれば、疱瘡或は疫癘(えきれい)流行すれば伝染する事、日本人に異ならず、
    若(し)是に遇えば恐懼して宅居を棄て深山幽谷に(のが)れ往て流行の疫病(たえ)て後、故郷に帰り住居するなり、
    親子夫婦は看病介抱するとも、其他は皆見離して見殺にして(のがれ)去る、
    是医薬の術なき故なり、
    同じ人間に生れながら浅間しき国政に()う人間も有物(あるもの)にや、
    余り堪難き事どもなり、
    かかる(てい)を見るに附ても 吾邦の御世(みよ)の有難(き)事、猶弥増(なおいやまし)にして忘れ難きことなり。

    なお,誤解の無いよう,最上徳内の哲学を確認しておく:
     
    pp.138,139
     松前大野村の喜三郎という通詞は、蝦夷の風儀を能く(わきま)えて、蝦夷に憚られたるものなり。 蝦夷ども常に申けるは、喜三郎は恐るべき人なり。 蝦夷姿をしたるものあれば、髪を刺らんと憤り、又非分なる事あれば、チヤラケという切り口上にて(つぐない)を出んとて、皆伏したり。 蝦夷人髪刺る事を恐れ、()だ言語には伏す事、此類なり。
    然る所、蝦夷御用地となりて、髪を刺るべしと申付る。
    蝦夷ども恐れざるものはなし。
    若し(かな)わぬ時は、松前領の方へ迯去(にげさ)るべしというものも有。
    山奥へ引籠り住居せんというものもあり。
    蝦夷ども心落つかね様子なり。
    ホロイヅミ会所にて、若き蝦夷の月代(さかやき)を刺り、日本人の風俗に進めて、米、酒等を与えけるに、其親類のもの申けるは、
      病死するは是天命なれば、哀むといえども除くべきようもなし。
      今月代を刺り、先祖より受けたる姿を失い、衆人に交りを結ぶ事も能わず、天の罪を(のが)るる所なし。
      此上蝦夷とも交をも許さず、其身も自ら(せま)りて悪運の事も(きざ)すべし
    とて、甚だ歎きける。
    按ずるに、礼記王制の篇に、
      器械 制を異にす。
      衣服 其宜を異にす。
      其教を修めて其俗を()えず、
      其政を(ひとし)うして其宜を易えず。
    是実に寒国を治むるに思い当りたる事なり。

    pp.140
     松平信濃守 [忠明] 殿ヒロウ場所を通りし時、蝦夷の手を合せ拝するは嫌いなりとて、皆平伏をさせたり。
    是によって蝦夷ども申けるは、
      是迄拝したるを止めて平伏する程の事は、いかようにすれば(とて)、蝦夷の難渋になる事にもなけれ共、
      蝦夷の風俗を嫌なる御役人の(まいり)しにては、ならぴ此末何程か嫌い事あるべし、往々は難渋もあらん
    と、酋長クシユパク(ならび)にトマグシテ、其次の酋長シャンケモツチ並にシヤルシヤ等一統歎きて語りける。
    尤なる事なれば、安心の為に申含めんと思いて、
      一体蝦夷の風格を嫌いの御役人ならば、如斯(かくのごとき)辺土へ好みて旅行する道理あらず、
      按ずるに、通詞俄に老少大勢のものへ一言にて聞ゆる為、嫌いなりといいし事ならん。
      公儀は民の歎きを押てなさるる事なし。
      亦請負べし
    と申含ても、兎角難有(ありがたし)と申もの稀なり。