Up 「アイヌの楽園」: 要旨 作成: 2016-11-28
更新: 2016-11-28


     
     その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
     冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久にさえずる小鳥と共に歌い暮してふきとりよもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とるかがりも消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
     太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
     その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
     時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たち‥‥‥
    (知里幸恵『アイヌ神謡集』「序」) 
    このストーリーは,「失楽園」のストーリーである。


    "アイヌ"イデオロギーは,国から賠償をとる政治運動のイデオロギーである。
    国から賠償をとるためには,国に罪がなければならない。
    そこで,国の罪を造形する。
    このとき造られるのが,和人悪者論である。
    ストーリーは,「和人はアイヌの楽園を奪った」である。

    和人はアイヌの楽園を奪った」は,「奪った楽園を返せ!」になる。
    奪った楽園を返せ!」はポーズである。
    返せないなら,賠償しろ!」へと進めるためのステップである。

    "アイヌ"イデオロギーのイデオロギーたる所以は,「失楽園」のストーリーを「和人はアイヌの楽園を奪った」の和人悪者論に転じるところにある。

    「楽園を失った」を「楽園を奪れた」に変えるとき,「楽園」の位相が変わる。
    「楽園を失った」では,「楽園」は<状態>である。
    「楽園を奪れた」では,「楽園」は<物>である。
    「楽園=状態」は,「返せ!」を言えない。<状態>は<遷移の断面>であり,そして<遷移>は,戻せるものではないからである。
    対して,「楽園=物」は,「返せ!」を言える。


    奪った楽園を返せ!」は,自家撞着する。

    奪った楽園を返せ!」は,「自分たちはその楽園に棲みたいのだ!」が論理的含意 (implication, 必要条件) になる。
    実際,「自分たちはその楽園に棲みたいのだ!」でなければ「奪った楽園を返せ!」とはならないわけである。

    自分たちはその楽園に棲みたいのだ」に対しては,「本気かね?」のことばを返すことになる。
    なぜなら,その「楽園」は,"アイヌ" が選ぶものにはならないからである。

    その「楽園」は,「野生の楽園」である。
    "アイヌ" は,現代人である。
    現代人に「野生」はできない。

    「アイヌ」は,現代人があこがれるようなものではない。
    特に,「アイヌ」は,"アイヌ" があこがれるようなものではない。
    現代人にとって「アイヌ」は,「自分がこれに生まれなくてよかった」と思うような存在である
    特に,"アイヌ" にとって「アイヌ」は,「自分がこれに生まれなくてよかった」と思うような存在である。


    <アイヌ=野生>は,現代人がなろうとしてもなれないものである。
    この「なれない」の思いは,リスペクトに変わっていく。

    実際,「アイヌ」は,これの「野生」を以て,自ずとリスペクトされるものになる。
    アイヌに対するリスペクトは,「野生」に対するリスペクトである。

     註 : 「アイヌへのリスペクト」の正反対に位置するのが,「アイヌ文化の継承」である。
    「アイヌ文化の継承」は,現代人の勘違いした正義感/優越感が立てるお題目である。
    この<現代人の勘違いした正義感/優越感>には,呼び名がある。
    「エコロジー」である。
    「アイヌ文化の継承」の側に自分を立たせて満足する。
    高山植物を「お花畑」と呼ぶ側に自分を立たせて満足する。
    この満足は同じものであり,エコロジストの<正義感/優越感の満足>である。
    アイヌは,<現代人の勘違いした正義感/優越感>を写す鏡である。
    特に,アイヌは,「アイヌ文化の継承」の虚構を写す鏡である。。