Up アイヌの「死」の論理 作成: 2019-02-05
更新: 2019-02-05


    生物一般は,食べるために生き物を殺すことについて,特段思想はつくらない。
    狩猟生活者は,これと同じになる。

    農耕生活者は,殺生を罪とする思想を醸成する。
    ただし,食べるために殺している生き物がいるので,その思想はご都合主義的である。

    都会生活者は,食べるために生き物を殺すということがない。
    食べ物は加工・調理された格好でやってくる。
    そこでこの場合は,無知から,殺生を罪とする思想を醸成する。


    「殺生は罪」の思想は,「殺すと(バチ)があたる」を組み合わせる。
    罰を与えるものは,殺された者の恨みである。
    こうして,「殺生は罪」の思想は,「幽霊」の概念をつくる。

    狩猟生活は,「殺された者の恨み」「幽霊」の観念を携えたら,やっていけない。
    そこで狩猟生活者は,「殺す」を「あの世に送る」の意味にする。
    存在のシフトというわけである。


    アイヌの死に関する儀式は,送る儀式に尽きる。
    アイヌは,殺生のその都度,送る儀式をする。
    ──この儀式に用いるのがイナウである。

    死んだ者は,この世に何かを残すものではない。
    思いを残すものではないし,「幽霊」の(てい)でこの世にぐずぐず彷徨うものではない。

    こうして,遺体には何も残っていないことになる。
    遺体は死者のよすがを思うものではない。
    都会生活者がスーパーの肉パックや鶏ガラパックに対するように,即物的に対するものである。


    この「あの世に行く」の考えは,獲物ばかりでなく自分──人間──にも適用されねばならない。
    人が死ぬとはあの世に行くということである。
    この世をすっかり忘れ,絶縁の(てい)であの世に行く。
    後には何も残さない。
    生前の名前も残さない。
    実際,アイヌは死んだ者の名前を口にしない/してはならない。



    ところがここに,「アイヌ」を(かた)って「アイヌ遺骨返還」キャンペーンを張る者がいる。

    アイヌの思想では,人骨には何の意味もない。
    人骨を供養するとは鶏ガラを供養するようなもので,噴飯物である。
    「アイヌ」を騙って「アイヌ遺骨返還」キャンペーンを張る者は,その存在と行為において,アイヌの思想・文化の事実を改竄する者である。

    この手の改竄には心底うんざりさせられるが,しかしこの手合いを丁寧に拾い上げるのが生態学というものである。 ──「何事も教えるところはある」という立場である。
    即ち,「どのようなダイナミクス/メカニズムによって,このような手合いが現れることになるかのか?」を考えるのである。
    そしてこれを論じようとすれば,本論考がそうなっているように,アイヌ学・"アイヌ"学のスケールまで広がることになるわけである。