Up 「同族=洗脳されたる者」 作成: 2016-12-12
更新: 2016-12-12


     本多勝一「「北海道アイヌ」こと貝沢正氏の昭和史」
     『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.75-94.  
     
    pp.79,80
     だが、ひたすら初孫をかわいがった祖父母たちの態度の日常に、成人してから気付いた重大な民族的悲劇があらわれていた。 アイヌの民族文化を、祖父母たちはもはや孫に伝えることを断念し、むしろ避けていたのだ。
    その象徴的あらわれは、ユーカラやウエペケレの名うての伝承者だったコタンピラ夫妻の態度である。 幼い孫に、アイヌ伝承文学どころかアイヌ語さえ教えず、むしろ反対に、シサム (日本人) の「おとぎばなし」を日本語できかせた。
    シャクシャインの反乱から二百余年にわたる侵略で民族的苦難にあえいできた末の祖父母世代は、アイヌの将来に望みを失い、子孫が生きるためには自らの文化をここで断念せざるをえないと判断したのだ。
     民族の言葉で孫と話をすることもできぬ深い悲しみ。
    そんな苦悩など知るよしもない幼少の正は、母の実家でコタンピラ老夫妻からきいた「日本のおとぎばなし」を、帰ってから父方の祖父母に日本語で聞かせる。 大喜びの二人にうながされるままに、一晩に同じお話をくりかえしては得意がっていた。
    「あのころアイヌ語で育てられていたら‥‥‥」と、いま七六歳の貝沢正は、腹立たしさ・くやしさ・悲しさなどの入りまじった、言葉にもならぬ感慨に襲われるのである。
     そのような「日本化」(非アイヌ化) 方針で育てられた父・与治郎は、自分はもちろん息子の正にも、日本的価値観を「よいもの」として脱アイヌにつとめさせた。
    だが、母ぺかしぬれは違った。 実は母は、子供のないコタンピラ夫妻が養女として札幌からもらってきたシサムだったのだ。 しかし根っからのアイヌプリ (アイヌらしい生活態度) で育ったぺかしぬれは、アイヌプリを死ぬまで大切にしていた。

    p.83
     一九二八(昭和三)年、校長の推薦で海軍軍人を志願した。
    根っからの「脱アイヌ」に "洗脳" されていて兵隊好きだった父は、正をつれてよく日露戦争などの講演をききに行っていたほどなので、これを心から喜んだ。
    正も「大日本帝国海軍」の軍人になる夢をもつようになっていた。


    <情況>へのアイヌの適応行動は,《アイヌ文化を捨て和人文化をとる》であった。
    ちょんまげ・着物を捨て,散切り頭・洋服をとるようにである。

    ちょんまげ・着物を捨て,散切(ざんぎ)り頭・洋服をとるようにさせるものは,何か。
    西洋文化が自分を映す鏡になる。
    自分の像を見て,自分が遅れていると思う。
    そして,自分は「西洋化」を以て変わらねばならないと思う。
    この思いが,ちょんまげ・着物を捨て,散切り頭・洋服をとるようにさせるものである。

    この者の<ちょんまげ・着物を捨てる>は,<ちょんまげ・着物を「断念」する>ではない。
    <ちょんまげ・着物を捨てる>の感情は,「深い悲しみ」ではない。
    この者は,<変わる>を自分が確かに実践できていることを「喜ぶ」者になる。


    貝沢正の父・祖父母にとって,和人は自分を映す鏡になる。
    自分の像を見て,自分が遅れていると思う。
    そして,自分は「日本化」を以て変わらねばならないと思う。

    「幼い孫に、アイヌ伝承文学どころかアイヌ語さえ教えず、むしろ反対に、シサム (日本人) の「おとぎばなし」を日本語できかせた。‥‥‥母の実家でコタンピラ老夫妻からきいた「日本のおとぎばなし」を、帰ってから父方の祖父母に日本語で聞かせる。大喜びの二人にうながされるままに、一晩に同じお話をくりかえし‥‥‥」
    「大喜び」は,その通りである。──偽りではない。


    本多勝一にとって「アイヌ」は,「憐れむべき者」である。
    本多勝一は,アイヌを憐れむ。
    <憐れむ>は,<見下す>である。
    本多勝一は,アイヌを見下す。
    貝沢正の父・祖父母を憐れむ本多勝一は,貝沢正の父・祖父母を見下す者である。

    本多勝一は,ひとを<主体>として見るという視座を知らない。
    本多勝一にとって,ひとは,<正しい考え>になかなか至れない愚かな存在である。
    一方,自分は,<正しい考え>をもつ者である。
    こうして,本多勝一がひとを見るとき,それは<見下す>になるわけである。


    本多勝一が「貝沢正」を題材にする仕方も,これである。
    本多勝一が「貝沢正」を題材にしてすることは,貝沢正を素材にして<正しい考え>──即ち,自分──を示すことである。

    実際,貝沢正は,本多勝一のよき生徒である。
    貝沢正は,本多勝一が自分について書いたものを,裏切らないよう生きねばならない者になる。
    貝沢正は,自分の父に対する本多勝一の見方
      「根っからの「脱アイヌ」に "洗脳"されて」
    を認める。
    「洗脳」されたのは,貝沢正である。
    そして,本多勝一も,「洗脳」された者である。──<正しい考え>に。