Up 文学"アイヌ" の学者"シャモ" 批判 作成: 2016-12-18
更新: 2016-12-18


    文学は,<一括>に対する「否」である。
    「アイヌ」という括りをつくろうとする「アイヌ学」は,文学"アイヌ" が批判するところとなる。

     佐々木昌雄 :「〈アイヌ学〉者の発想と論理──百年間、見られてきた側から」(1974)
      『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.206-218
     
    pp.209-211
    この「アイヌ研究は世界の学界に対する日本の学者の責任であり使命だ」という責任の倫理と、「すぐにもアイヌ文化は滅びてしまう」という滅亡の認識、この合言葉が研究を推進するのにどれほど強力な役目を果したかは、いまだにその言葉の下に研究が容易に行われていることで明らかである。
    さしあたって、これを批判することで今日の私の役割りの一つを果そう。
    まず、「学者の責任」という倫理観についていえばこの倫理には一つの倒錯がある。
    学者とは厳密にはどういう語義なのか、それはいざ知らず、学問に従事する者ぐらいの語義で用いるとすれば、その学問に従事することはあくまで個人の恣意であり、集団の成員たちから挙げて委託されたものではない。 (そう錯覚している者たちのなんと多いことか)
    本来、よく巷間で「あいつはちょっとした学者だなァ」などと用いるように、学者とはちょっとした物識りであるにすぎない。 その学問に従事したいという恣意をもつ人聞が集まって成立しているのが学界であり、学界もまた恣意の集団にすぎない。 だから、学者とは特別な何者でもないし、また学界も特別な何者たちの集団でない。
    しかし学者と素人というポラリテーシヨンがしばしばあるように、学者を殊更な何者かと想い込む幻想がある。
    これが第一の倒錯である。
     この第一の倒錯から第二の倒錯が生ずる。
    つまりは個人の恣意がそのまま集団の恣意なのであるからには、世界の学界に対する日本の学者の責任というとき、その責任とは、自分たちの願望から生まれた想い込みに対する責任であるにすぎない。
    これが第二の倒錯である。
    これは言わば同義反復である。 ただ、個人の想いを集団の目的に昇華したつもりになっているだけであって、自分の研究活動を個的な幻想ではなく、学界という集団の全体意志によるものとするすりかえをしているのである。 こういう責任感は、トートロギーの倫理という以外ない。 たとえ倫理というものが詮ずるところ相対のものであり、いかなる倫理も絶対でありえないと考えるのだとしても、トートロギーの倫理は、倫理以前といわざるをえないだろう。 学者の責任などというものは、自らの心の内にしか存在しえぬ、自らの自らに対する責任という自閉症的円環に依って成立しており、自らと他の誰かとの関係から生ずるような責任という名に値するものではない。
     しかし、この責任感、使命感が学者個人ないしは学者相互間にとどまっているのなら、殊更に門外漢が云々しなくともよいのだが、ここから第三の倒錯が生じるから困るのである。
    第二の倒錯までは、あくまで学者たちの内部の問題であるから、私の関与するところではないのだが、学者が外へ向かって行動を起こすとき、第三の倒錯が生じてくる。
    それは、学者たちだけのものであるはずの責任や使命が、それ以外の者にも強要されるようになることである。
     〈アイヌ学〉の場合、〈アイヌ学〉者の責任と使命を遂行するには、勿論、研究対象である〈アイヌ〉一人一人が不可欠である。 だから、研究のために学者たちに調べる責任と使命があるということは、〈アイヌ〉たちには調べられる責任と使命 (もしくは義務) がある、ということに転倒してしまう。 〈アイヌ〉学のために、世界の学界のために、〈アイヌ〉は調べられる責任と使命をもっというのである。
     かくして、個人の恣意から派生した責任と使命は、いつのまにか〈アイヌ〉なる人間一人一人に及び、ついには被調査者となった〈アイヌ〉なる者は「彼は我々の学問の意義、真理の尊さを理解した」ということになり、そのはてには、揶揄すべき例の一つを挙げれば、五百円かなにがしかの金欲しさに、自分は〈アイヌ〉だと偽って〈アイヌ学〉者に血液を提供した〈シャモ〉までが、「学問の理解者」「真理探究の協力者」ということになってしまうのである。
     〈アイヌ学〉者のみならず、かなり多くのアカデミシャンがこの倒錯に陥っており、今述べたような考え方に対しても、「真理の何たるかをわからぬ者の痴れ言」とか、「じゃ、おまえは真理を否定するのか」とかいって黙殺ならぬ笑殺で対応されるのがオチであろう。 私は、真理とか学問とかを否定しようとか否定しないとか言っているのではなく、〈アイヌ学〉者はまだまだ真理に対して誠実ではない、ということをいいたいのだ。

    p.214
     これは実に正直な発言で、現在の〈アイヌ〉研究は、本当のところ、〈アイヌ〉それ自体については漠然として判らない、という文字通り致命的な状態にあるということである。
    ‥‥‥
    翻って、なぜまだ漠然としているのかと問うてみよう。
    ‥‥‥
    私から見ると、方法論に、対象の設定のしかたにいささかの疑問が感じられる。
    ‥‥‥
    ピュアな「アイヌ」、一定の質を有するホモジーニアスな集団としての「アイヌ」という前提のおきかたに、かなりの固定観念、先入主があると考えられる。

    pp.215, 216
     要するに、現在なお〈アイヌ学〉者たちのいう〈アイヌ〉、即ちテクニカルタームとしての〈アイヌ〉とは,一般でいう〈アイヌ〉と何の変わりもないということである。 一般の人々が〈アイヌ〉は是々然々だと言う、その〈アイヌ〉の特徴がそのまま〈アイヌ学〉に受け容れられて、予め〈アイヌ〉とは是々然々のものでなければならないと決められている。
     その結果、どういうことが起こるか。
    一人の〈アイヌ〉の人体の形質を様々に計測分析して、先入観から〈アイヌ学〉者の頭の中につくりあげられている〈アイヌ〉の像と重なりあうのは純粋な〈アイヌ〉のファクターであり、重ならずに、ずれるのは〈シャモ〉と混血したための非〈アイヌ〉のファクターと決めつけてしまうのである。
    そして、その純粋な〈アイヌ〉とは是々然々であるという数値を次々と作りだし、一般の人々が抱く〈アイヌ〉のイメージを科学的という名でもって固定化し、権威づけてきたのである。