Up 文学"アイヌ" の窮民革命主義"シャモ" 批判 作成: 2016-12-18
更新: 2016-12-22


     佐々木昌雄 :「「アイヌ」なる状況」(2), 『亜鉛』, 第19号, 1973.6
      『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.129-144.
     
    pp.119,120
     さて、普段は手にしないような『映画批評』という雑誌を買ったのは、その広告に「アイヌの復活、和人(シャモ)の滅亡」という文字を見て驚いたからである。 アイヌが復活する‥‥ !? この題名の一文は、「アイヌの復活」のどんなイメージを描いているのか、私は興味をそそられた。 そして、その結果は「!」ではなかった。
     この一文は、従来の「アイヌ」に関する文章とはいささか趣を異にしている。 筆者太田竜が考える「アイヌ」とは何か、そして「アイヌの復活」とは。 例えば、次の文章である。
        一九七一年は、和人(シャモ)支配者に対する闘いの歴史において、きわめて重要な、記念すべき年となった。 一つは、この年の四月、小山妙子と貝沢三千治のアイヌ風結婚式が、八十年ぶりに復活したことであり、二つは、日高支庁静内町にシャクシャインの銅像が立てられ、この秋、アイヌ同胞(ウタリ)の集会が聞かれることである。 前者は、同胞の心をゆり動かす。 後者は、和人に対する武装闘争を呼びかけるかすかな合図である。 和人との混血がすすみ、「同化」の道をふかくすすんでいる()()()のアイヌが、一億一千万の人口をもち、いまや世界第三の経済大国となった日本帝国の権力に対して、再び、武器をもって立ち上る。 白昼の夢と、俗物は言うだろう。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
    (傍点原文)
     私には「超越者の心的能力」がないから、「武装反乱の合図」は聞えない。
     けれども、太田竜の想いがなんであれ、また「アイヌ」に対して「武装反乱」を仮託しようとあずかりしらぬが、ただ「アイヌ」に関する事実についてだけは譲れない。 何故なら、それは私自身の「闘争」に関わるからだ。 太田竜に問う。 「和人(シャモ)との混血がすすみ "同化" の道をふかくすすんでいる五万人のアイヌ」とは誰か?

    p.122,123
     北海道旧土人保護法の制定の際、貴族院での質疑に対し、政府委員が「明らかに誰が見ても解るものだけは "アイヌ" の旧土人の方で取扱う積であります」と答えたのは、しばしば引かれる例であるが、この〈日本〉において、「アイヌ」とは「アイヌ」である、という奇妙な「アイヌ」であることの決定法が依然としてあり、太田竜もその詐術にひっかかっているらしい。 この奇妙な決定法からはさらに奇妙な論理が展開してゆく。
     例えばこうである。 「アイヌ」は「アイヌ」であることによって差別されるから、「同化」した方が結局は幸福なのだ。 あるいは、「アイヌ」は「アイヌ」であることによって差別されているから、もっと「保護」されねばならない。 あるいは、「アイヌ」は「アイヌ」であることによって「誇り」を持てるのだ。 「アイヌ」のかつての「文化」をみよ。 あるいは、もっと手が込んでくると、「アイヌ」は「アイヌ」であるが「アイヌ」でない、「アイヌ系日本人」なのだ。 (アイヌ系日本人‥‥ !? やっぱり日本人系日本人とは違うらしい) あるいは、「アイヌ」は「アイヌ」であることによって圧迫され差別されてきた悲惨な人間であるから、「アイヌ」である誰に対してでもそのことを考えてやらねばならない。 等々‥‥‥。
     この最後の例の「あるいは」の論理から、「アイヌ悲歌」が生まれる。 太田竜も、とどのつまりはその延長上にあり、「アイヌ」を何者かと思い込んでしまっている。 次のような、「アイヌ同胞(ウタリ)」に対する彼の呼びかけは、結局のところ幻の「アイヌ」にしか向けられていないのだ。
       アイヌ同胞(ウタリ)たちよ。 私は、このようにして、「市民社会的文明的革命者」としての一線を、いまこえようとしている。 私は、あなたの方に、一歩、すすみはじめた。 このことは一億一千万人の日本市民と断絶し、彼ら男女と敵対する道である。 とりあえず、シャクシャインの銅像、長い槍を右手に高く持ち、はるか前方の敵、和人封建武士階級の軍隊を見すえている、アイヌ同胞の「英雄」シャクシャインを、私は、あなたと共に、心のなかに刻みつけよう。
     太田竜が、「アイヌ」に何を呼びかけようとかまわぬが、何をもって「アイヌ」が「アイヌ」であると言うのだろうか。 どうやら、「一億一千万人の日本市民と断絶し、彼ら男女と敵対する」 像を「アイヌ」に彼は見ているらしい。 これはいささか惚れ過ぎである。 しかし、どのような惚れ方であろうと、当人の恋意であるからには他人がこれ以上口出しすることもできまい。 それが、「アイヌ」という名の下に私に対して向けられたのなら別だが、何しろ、幻の「五万人のアイヌ」へ向けられているのだから。