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深尾勝子「あとがき」
砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983, pp.354-357.
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私の砂沢さんと共に過した一年は「なぜ、砂沢さんはこれだけのものを書いたのか」という私自身の問いに、納得出来る答えを見つけるための一年間だった、と思う。
砂沢さんは二冊のノートを書いた理由を「つらくて眠れず、思っていることを書くと胸が楽になるので書いた」(私の一代話)、「エカシやフチから聞いた話を子孫に伝えられなかった。
このままでは死ねない、と思って書いた」(祖先の話) と言っている。
だが、お話を聞いているうちに、この二冊のノートは別の理由で書かれた別々のノートでなく、実は、砂沢さんがどうしても言い残したいと思っているたったひとつのこと、「アイヌは、もともとこの日本 (ポイヤコタン=小さい島の国) に住んでいたほんとうの日本人なのだ」と主張するための二冊セットのノートだということがわかったのである。
ほんとうの日本人としてうやまわれなくてはならないのに、和人に「アイヌ、アイヌ」といやしめられ、土地を奪われ、つらい暮らしを余儀なくされた。
その中で、昔からの暮らし振り、言葉、信仰、文化の根幹とも言うべき伝承文学も失われてしまった。
残念でならない。
砂沢さんは、このことを繰り返し、繰り返し、言っているのである。
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深尾勝子/北海道新聞社は,砂沢クラを<わたしの「砂沢クラ」>にする者である。
深尾勝子にとって,砂沢クラは,つぎの「たったひとつのこと」を「繰り返し、繰り返し、言」うために『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』書いた者でなければならない:
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アイヌは、もともとこの日本 (ポイヤコタン=小さい島の国) に住んでいたほんとうの日本人なのだ。
ほんとうの日本人としてうやまわれなくてはならないのに、和人に「アイヌ、アイヌ」といやしめられ、土地を奪われ、つらい暮らしを余儀なくされた。
その中で、昔からの暮らし振り、言葉、信仰、文化の根幹とも言うべき伝承文学も失われてしまった。》
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深尾勝子は,「あとがき」をつぎのことばで締めくくる:
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砂沢さんのノートを知る機会を作ってくれた若いアイヌ解放運動家・結城庄司さんの突然の死を惜しみ、あらゆる反差別の運動と連帯して闘ったその活動の生涯をしのびつつ。」
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結城庄司は,深尾勝子の<正しい者>である。
深尾勝子は,結城庄司が示した戦線に自ら立たねばならないと思う。
そして砂沢クラを,<結城庄司と同一戦線に立つ者>に仕立てる。
これは,「砂沢クラ」の利用である。
しかし,ジャーナリストとは,もともとこの種の「利用」を仕事としている者である。
ジャーナリストは,世論誘導が仕事である。
報道は,素材を世論誘導に沿う形に加工する営みである。
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