Up 歴史認識 作成: 2017-01-26
更新: 2017-01-26


    同化派と保護派は,当然ではあるが,"アイヌ"史の捉え方が大きく異なる。
    実際,保護派に対しては,つぎを見てやることが必要である:
     《 「目的のためには手段を選ばない」のスタンスから,
     "アイヌ"史 をむりやり「アイヌ民族・エスノサイド史」に仕立てる》
    これに対し同化派は,歴史の潤色によって何かが得られることは特に無いので,歴史の素直な読み方を示す。


    以下,同化派の歴史認識の部類に属するものを,『アイヌの痕跡』から引く。
    保護派の歴史認識──例えば, 「アイヌ協会」が HP に載せているもの──と,比較されたい。

    なお,読みやすいよう,サブタイトルを入れる。(原文には無いものである)

      岩沢誠「特別保護の時代は去った」,『コタンの痕跡』, 1971, pp.13-21.
    特別保護の時代は去った
       岩沢(いわさわ) (まこと)

    [明治初年以前のアイヌの生活]
     明治初年以前のアイヌの生活は、男性による狩猟と漁撈、女性によるウパユリの採集と、わずかな農耕によって維持されていた。
     もちろん、生計の主体となっていたものは、男性の仕事である漁撈と狩猟であった。
     狩猟の相手は、鹿と熊であり、時季としては、春と秋であった。 漁撈の相手は、鱒と鮭で、時季は夏から秋にかけてであった。
     その当時は、そういったような原始的な方法で、アイヌの生活は維持されていたが、その後、幕府の直轄となってから、場所請負制度が強化されるに伴ない、アイヌの男性は、場所の産業の全権を握っている場所請負人の求めに応じて、労力を提供し、得た賃金で生活を補っていた。
     場所請負人は、アイヌの生活を保証することを条件として、その場所の支配権を委ねられ、内地からの出稼人も、場所請負人の許可がなければ、その場所で働くことはできなかった。

    [明治政府になって移民が流入──アイヌの生活崩壊]
     明治政府になってから、この場所請負制度を廃止し、北海道の開発のため、内地から移民を招いた。 そのため、内地から沢山の移民や、出稼人が入りこんできて、北海道のいたるところで事業をおこすようになり、アイヌもまた、誰とでも自由に契約して、働くことができるようになった。
     従来は、場所請負人とだけ契約し、そして、それにだけ使われていたのが、自由になったのだから、一応は解放された形だが、同時にそれは、従来、場所請負人から得ていた保護を失なうことになった。 もっとも、アイヌの保護や指導は、新らしくできた開拓使の地方行政機関に任されたが、それは決して充分なものではなかった。 それというのは、それらの機関は、アイヌに対する特別扱いをすべて廃止したからである。
     自由平等という人権尊重の立前からすれば、当然のことであるが、原始的な生活方法しか知っていないアイヌに対しては、自由平等は通じなかった。 それは、ただ、彼らを生活苦に追いやるだけであった。
     明治政府の方針によって、内地から沢山の移民や、出稼人がなだれこんでくると、彼らは、新らしい鉄砲を持ち、隊伍を組んで、鹿を射って歩いた。 また、アイヌを騙して、アイヌが苦労して取った鹿を、二足三文で買取って歩いた。
     アイヌが、仕掛弓や、毒矢というような原始的な方法で、しかも、自分らの衣食に足る程度しか取っていなかったものを、沢山の和人が、優秀な鉄砲を持って、際限なく射ったので、鹿は非常な勢いで減少していった。
     しかも、明治12年に大雪があり、自然の生育に任せられていた鹿は、冬の問、積雪が多かったため、雪の下から草を喰うことができず、大量に餓死してしまった。
     そのため、明治政府は、この対策として、鹿猟の制限を行なった。 この制限はアイヌにも適用されたのである。
     こんなことで、アイヌにとって、従来、家畜のように、自由に獲れていた鹿は、急に獲りがたいものになってしまった。
     この鹿と共に、アイヌの主食となっていた鮭も同様の運命をたどった。 アイヌの鮭漁は、主として川上の方で行なわれ、場所請負制度の当時は、川上の漁は「飯料鮭」と称して、アイヌの自由に任され、川口の漁は、場所請負人に独占されていた。 しかし、鮭の溯上を妨げる漁は禁止されていたので、アイヌは充分に川上で漁獲ができた。
     ところが、場所請負制が廃止されて、移民や出稼人のために、漁場の設立が許可されると、川口に大規模な漁場が設置され、川口の鮭が大量に漁獲されるようになった。
     これによって、川上の鮭も急激に減少し始めたため、政府は頭を悩まして、北海道の主な河川について、これを「種川」とし、その川上における鮭漁を禁止するにいたった。 これは、アイヌにも例外はなかった。
     この鮭漁の制限は、前述の鹿猟の制限とほとんど同一時期に行なわれたため、アイヌにとっては、生活手段を奪われる結果となり、まさに死活の問題となった。

    [アイヌの土地問題]
     元来、アイヌには、土地所有の観念がなく、農耕も、狩猟や漁獲の不足を補う程度のもので、もっばら、女子の家事労働の一部分としか見られなかったものであったから、その耕作面積も極めて狭小なもので、作りやすい土地を見つけると、耕転も充分に行なわずに種子を蒔き、肥料もやらず、除草も行なわないような粗末な方法であり、三年位作るとこの場所を放棄して次の場所に移るというやりかたであった。
     そのため、一時的な使用権は別として、永久的な所有権という観念は全然なかった。
     明治五年になって、北海道にも土地所有権制度が認められて、一般和人の所有権が確立され、それに属しないものは、一切、官有地に編入された。 ところが、アイヌには、所有権の観念がなかったため、彼らが、実際に支配していた土地や、住宅敷地など、客観的に見て個人利用の明確なものは別として、その余は、ほとんど官有地になってしまった。
     もっとも、一般人民 (平民) と、全く同等の取り扱いを受けていたアイヌは、一般人民 (平民) と同様に、その支配し、利用していた土地について、その所有関係が確実と認められるものについては、所有権を認められたのであるが、それらの僅かな土地も、悪い移民や出稼人のために、だまし取られたり、僅少な値段で買取られたりしたため、折角の土地もアイヌの生活保証にはならなかったのである。
     明治政府としては、前述の鹿猟や鮭漁の制限によって生じたアイヌの生活の困窮を、農業によって救済しようとし、その問題がもっとも深刻であった札幌、根室の二県 (この当時は県制) では、明治16年に、農業指導員を派遣し、農具や種子を与え、技術を指導し農業への転換を計った。 また、一般人民に対する土地払下も、アイヌの居住地を除き、また、アイヌに対しても、一般人民同様に払下を認めた。
     しかしながら、アイヌが内地からの移民に伍して、官有未開地の払下を受けて、これを財産として維持することのできる者は、極めて少なかった。 払下を受ける手続のできる者も少なく、また、移民に頼んで手続をして貰っても、その土地を維持して行ける者も少なかった。

    [<教育によるアイヌ救済>は空振りに]
     この原因について、政府は、急激に変化する政治ならびに社会制度に対するアイヌの無知によるものと判断し、アイヌに対する教育が緊急かつ重要なものとして、学校を設置するなど教育に力を入れ、明治13年には、内地と同様に小学校教育の義務制を施行したが、アイヌ子弟の入学率は極めて悪く、効果はあまり上らなかった。 それは、育った環境のちがいと、内地移民の子弟の人種的偏見が原因であった。
     いずれにしても、教育によるアイヌ救済はまさに泥縄的なもので、応急的な効果はなかった。 こうなると、特別な立法による救済以外には方法はなかった。

    [北海道旧土人保護法の制定施行]
     かくして、明治32年にいたって、北海道旧土人保護法が制定施行されるにいたったのである。 アイヌが窮迫の状況になってから、20年余りも過ぎてからの救済立法というわけで、ずいぶん、悠長なものだが、西南戦争、帝 国議会開設、日清戦争などという幾多の大問題に、当面していた政府としては、止むを得なかったことと思う。
     この法律は、アイヌの生活を農業によって維持させるため、 一戸あたり一万五千坪 (四万九千五百平方メートル) の土地を、土地を持たないアイヌに対して、簡単な手続により、無償で付与し、 開墾に要する費用や資材のない者には、これを給与し、 また、病気にかかって治療する薬代の無い者に対して、薬価などを支給した外に、 疾病、不具、老衰、幼小などのため、自活できない者に対して、一般の「窮民賑恤(しんじゅつ)規則」を適用する以外に、特別の救助を与える、 というのであって、アイヌに対して、かなり積極的なおもいやりのある法律であった。
     しかし、この法律は、一面において、アイヌの自由をかなり制限するものがあった。 それは、給与地をアイヌの家産として、長く維持させるために、 相続によるの外所有権の譲渡、質権、抵当権、地上権、永小作権の設定などを禁じた外、 留置権、先取特権の適用を除外し、 地役権の設定には、北海道庁長官の許可を要するものとした。
     このような制限は、 折角、政府が特別の恩典をもって、アイヌに土地を与えても、従来の例によると、 悪質な和人に騙し取られたり、 低額の借金のため取り上げられたりして、 土地を失なって、生活に困窮を来すことが多かったので、 それを防止し、家産として長く維持させ、生計の基礎とさせるための配慮からであり、 その当時としては、当然の措置であったと思う。

    [アイヌ児童の教育]
     また、この法律は、教育の面を考慮し、アイヌ七、八十戸の部落には、国費で小学校を設置し、貧困で通学でき ない者に対しては、費用を支給することにした。
     こうして、昭和九年頃になって、アイヌ部落を持つ町村に経済力ができ、住民の義務教育を十分に行ない得るようになったので、この法律の中の教育部門を廃止した。 しかし、それまでに、アイヌ児童の大部分は、小学校教育を受けて、日本語の会話はもちろん、読書や書き方もできるようになり、その中には大学に進学するような優れた者も出てきたようである。

    [アイヌの生活の変化]
     アイヌの生活様式は、一般和人の生活様式とはかなり違うものがあった。 婦人の入れ墨、耳輪、床や窓のない住宅、おひょうの若木の内皮の繊維から作ったアツシの服装など、一々取り上げると限りないが、これが、一般和人と同じように変って来た。
     住宅にも、床を作り、畳を敷き、ガラス窓を作り、婦人の入れ墨や耳輪も段々と少なくなり、子弟の中には、日本語は話せても、アイヌ語を話せない者もいるようになった。
     十勝のある小学校で、大正の初め頃、上級生について、将来の方針について作文を書かせたところ、はじめは、自分たちはアイヌだから、アイヌの風俗、習慣を守って、立派なアイヌになりたい、と書いた者が大部分であったのに対し、数年あとには、アイヌの時代に遅れた習慣を指摘し、自分らは、これを改めて立派な和入として、将来を切り開いて行きたい、というように変化してきている。
     このような、アイヌの生活の変化は、もちろん、  小学校教育の効果 であるが、同時に アイヌ部落が、北海道開拓の進展によって、内地移民の集団居住が、その周辺に迫ってきたために、従来のように孤立した世界ではなくなり、それとの交流が行なわれたこと も、大きな原因の一つである。

    [アイヌの土地所有制度の矛盾]
     しかしながら、このアイヌ部落と移民部落との交流は、一面においては弊害を伴なってきた。 それは、この法律で、アイヌ救済のために付与した土地は、前述のように、譲渡や物権の設定は制限されていたが、賃貸借は自由であったため、開墾の意思を失なった者や、その技術や資本を持たない者は、これを移民に賃貸して、小作料を取って生活をするようになり、中には、数年間の小作料の前取りなどのために、折角の付与地が、移民の実権に委ねられるようなのも生じてきた。
     そのため、大正の末期に、北海道庁は、各町村に互助会を作って、この整理を行なおうとしたが、賃借権の地位は無視することがでぎず、その結果、アイヌ部落の中にも、小作人のような内地移民を交えるようになった。

    [アイヌと和人の混淆]
     かような、内地からの移民部落とアイヌ部落の交流は、アイヌの家族の中にも入りこんできた。 徳川幕府の時代から、アイヌ婦人と内地出稼人との結婚は、出稼人の入った海岸地方で行なわれ、多人の混血を生じていたが、この法律によって、付与地の所有者となったアイヌ婦人と、その資産を目指す出稼労働者や移民などの結婚は、内陸部にも相当生じてきた。 小学校教育によって、内地移民の子弟と伍するようになったアイヌ部落の子女は内地移民の子弟と結婚することを望み、また、アイヌ部落の子弟も、内地移民の子女と結婚することを望むようになった。 また、アイヌの中には、移民の幼児を、生れながらに養子として迎え、これを育てる者もあり、アイヌと和人の純血と混血、和人とアイヌとの区別は、アイヌ部落と移民部溶の近接した地方においては、相当な混乱を生じ、区別がつけ難い状況も生じてきたようである。
     このような状態で、北海道の開拓政策の一環として為されたアイヌ対策は、アイヌに特別な保護を与えつつこれを和人の中に解消して、何らの区別をつけなかったのである。
     しかし、現在において、社会的な人種偏見が、全く解消したとはいえないが、 ことさらに、アイヌ民族であるととを示し、内地観光団の観光対象となっているもの (この中には和人との混血が相当多くいるようである) 以外は、 和人との区別が必らずしも明確ではないようであるので、その問題は、比較的稀薄なものである。

    [人種差別基調の特別保護の無用──北海道旧土人保護法廃止の必要]
    北海道のアイヌ研究家の高倉新一郎氏 (現北海学園大学学長) は、アイヌ問題は、もはや、人種、民族の問題としてではなく、社会経済的な辺境に住むための貧困の問題として、とらえねばならない時期にきている、と言っている。
     北海道におけるアイヌの問題は、たしかに高倉氏のいうとおり、現在においては、人種差別から生ずる政治上、社会上の問題は、たいして目立たないようである。 しかし、人間の内心における感情的な人種偏見は、なお、社会の一部に残存していることは否定できない。 これが残らず取り去られるためには、なお、相当な年月を必要とすると思う。 人間の内心にある感情は、法律や政策によって、たやすく、消滅するものではない。 時の流れが必要である。 時が流れ、年月が経過するに従って、その感情はうすれ、やがて消滅するに違いない。
     そういう意味からしても、北海道旧土人保護法のような人種差別的なものは、速やかに廃止すべきであると思う。
     アイヌの人達は、現在は、和人に伍して何ら劣るところが無くなり、大学を卒業した者も多くなり、中には、有名な学者になった人もいる。 また、経済的に成功し、大資産を持っている人もあるし、現在においては、アイヌなるがゆえの人種差別を基調にした特別の保護は、全く必要を見ないのである。
     なるほど、北海道内には、貧困な僻地のアイヌ部落が一つもなくなったとはいえない。 しかし、それは高倉氏の説かれるとおり、そのアイヌ部落だけの問題ではなく、アイヌ部落を含むその地方の部落全体の問題である。 従って、問題は別である。
     (本稿については、その大部分を、高倉新一郎氏の著書によったものであることを付記する)。

       執筆者紹介 一、現在のお仕事
       弁護士
       北海道人権擁護委員連合会長
    二、著書名、論文など
       「労働組合法解説」昭和二三年
       「労働基準法解説」向上
       「労働法解説」昭和二五年