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高倉新一郎 (1974), p.146
和人との接触の最初には、酋長の有力なものを、和人の村長と同じように乙名と呼び、それを通じて統治していたが、後には乙名の任命を和人の選択で行なうようになった。
そして数部落を合して乙名を任命し、その下に乙名を助ける小使い、その相談役のミヤゲトリ(みやげ取り) をおき、これを三役といった。
その上、一地方にさらに総乙名・脇乙名・総小使いなどを置いた。
そしてウイマム‥‥と称し、時々三役を松前に呼んで待遇し、
またオムシヤ‥‥と称し、年に一回その地方の全アイヌを集めて漁勘定を行なう時やその他の時に種々の心得を読み聞かせ、役夷を任命し、待遇した。
この三役は後に、生活を日本風に改めた者に対し庄屋・名主・年寄りなどの名が与えられ、本州の村制と同じものになった。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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