Up 移動 作成: 2017-02-14
更新: 2017-02-20


      高倉新一郎 (1974 ), pp.50,51
    北海道アイヌは、漁猟にたよる自然生活を営んでいたから、常に四季の獲物を追って転々と住居をかえていた。
    ただ、手に入る獲物の豊富なところでは、住み易く安全な地を選んで本拠とし、それを中心に動いていた。
    そしてそこは、主に彼らが重要な食料品としていた鮭・ます等がさかのぼり、そしてもっともそれが多く集まる産卵場付近であった。
    そこに集団をなし、やや永久的な住居を構え、出稼ぎの時はそれぞれの箇所に仮小屋を建てて住んでいた。

      知里真志保 (1956),「kotan」
    春から秋にかけては海辺に住んで ‥‥‥その際の住家を sak-chise (夏・家) と言い,夏家の在る所を sak-kotan (夏・部落) と言った。 ‥‥‥
    秋の末には夏の家を引きあげて山の手の冬の家に移り,翌年の春まで穴居生活を営んだ。 その家を toy-chise (土・家) と言い,それのある所を mata-kotan (冬・部落) と言った。或は riya-kotan (越年する・村) とも言った

      地名例: 積丹(しゃこたん)← sak-kotan


    後代には,「春から秋にかけては海辺に住んで」には,<場所へ出稼ぎ>が含まれるようになる。

    また,「移動」のうちに,<和人から逃げる>が含まれるようになる:
      砂沢クラ (1983), pp.137,138
     私の夫はユーカラ (長編英雄叙事詩) やトゥイタッ (散文物語) に名高いオタスツウンクル (オタスツ人) の子孫でした。 オタスツウンクルは、大昔、オタスツ (小樽付近) に住んでいた心のよい、霊力を持つ人たちで、よその土地で変わった事が起きて困っていると訪ねて行ってよいように教えたり助けたので、その話がユーカラやトゥイタッ に語られているのです。
     夫の祖先が、昔から住んでいたオタスツを離れ、伏古コタンに住むようになったのは、和人がアイヌの住んでいる土地につぎつぎと入り込んできでは、アイヌの困ることや悪いことをしたからです。
     「和人と一緒では安心して暮らせない」と、和人が入ってくるたびに和人のいない奥地へ奥地へと、逃げ隠れするように移り住んでいるうちに、とうとうウェンモシリ (悪い国土) と呼ばれる伏古に行き着いてしまったのでした。
     私がエカシやフチたちから聞いた話では、夫の祖先は、まず、オタスツから海辺を歩いて石狩川の川尻まで行き、そこから舟で川をさかのぼり、石狩川と空知川がぶつかっているソラチプト (現在の滝川市) から空知川に入って、その川上の山奥に住んだそうです。
     夫の祖先は、この地を自分たちがやってきた土地オタスツの名を取ってオタウシナイ (歌志内) と名付けました。
    当時は、海辺からオタウシナイに入る道はなく、山にはクマがたくさんいましたし、和人は舟で川をさかのぼれないので、しばらくの間は、アイヌだけの落ち着いた暮らしが出来ました。
    ところが、ある時、祖先のエカシが山へ猟に行き、炭山を見付けて和人の役人に教えたので、炭山を開くための道がつき、炭を掘る囚人たちもたくさん来て、この土地にもいられなくなったのでした。 ‥‥‥
     夫の祖先は、また、空知川をくだって、いったんはソラチプトに住みました。
    ここは畑の作物もよく出来、山の野菜も魚もたくさんとれてよい暮らしが出来たのですが、まもなく鉄道の線路をつけるため囚人たちが入ってきておられなくなり、こんどは石狩川をさかのぼって伏古に来たのでした。



    引用文献
    • 知里真志保 (1956) :『地名アイヌ語小辞典』, 北海道出版企画センター, 1956
    • 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
    • 高倉新一郎 (1974) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974