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最上徳内 (1790), p.31
蝦夷地の一村落、家僅に五戸七戸なり、
希に十戸計もあれば大村とするなり。
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高倉新一郎 (1931), p.187
「野作雑記譯説」巻二所収 寛永二十年北海道に来た和蘭船の報告にも
「 |
余既に見及びたる家數最も多しといふべきもの二十戸に過ず、却て一村の家數は六、七戸より十一戸に至るなり。其部落亦、之と彼と相距る間半里あり。近きものなし。」
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と言ひ、‥‥‥
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知里真志保 (1956)
家一軒しかなくても ‥‥‥ 一時的にせよ永住的であるにせよ家の在る所を kotan と云
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菅江真澄 (1791):
引用文献
- 最上徳内 (1790) :『蝦夷草紙』
- 須藤十郎編『蝦夷草紙』, MBC21/東京経済, 1994, pp.19-115.
- 知里真志保 (1956) :『地名アイヌ語小辞典』, 北海道出版企画センター, 1956
- 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
- 『菅江真澄集 第5』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.307-424.
- 高倉新一郎 (1931) :「北海道アイヌの社會生活」, 北海道帝國大學法經會法經會論叢, 1, 1931. pp.179-195
参考ウェブサイト
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