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萱野茂『アイヌの碑』(朝日文庫) , 朝日新聞社, 1980.
pp.193-195
アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち〈日本人〉が勝手に名づけた北海道を〈日本国〉へ売ったおぼえも、貸したおぼえもございません。
しかし今となって、北海道に住んでいる〈日本人〉を〈日本本土〉へ帰れと言っても、そう簡単に帰れるものでないことは承知しています。
そんな実現不可能なことをわたしは言いません。
わたしは、今このアイヌ・モシリに住んでいるわたしたちも〈日本人〉も一緒になって、このアイヌ・モシリの自然を守りたい。
今まで何かと差別されてきた先住者のわたしたちアイヌの生活の向上のために、思い切った政策を実行して欲しい。
家を不自由している人には家を建てて入れること。
向学心に燃えても家庭の経済的事情で進学できない人には国費を出してやること。
数の少ないアイヌだけでは国会議員、道会議員を選出することができないので、それを選出できる法律や条例をつくること。
アイヌ語を復活させ、アイヌ文化の大切さを教えるため、希望する地域にはアイヌ語教育をする幼稚園、小・中学校、高校、大学を設置する。
そして、これらに必要な経費は国や道が出す。
元々の地主に今まで払わなかった年貢を払うつもりで出すこと‥‥‥
少数民族の問題について、国はもちろん道も市町村もあまりにも理解がないと言いたいのです。
お隣りの中国では、少数民族の朝鮮族の住んでいる地域ですとパスの停留所の標識などは共通語の中国語と並べて朝鮮語でも書いてあります。
中国国内で五十四種族の少数民族の自治区はすべてそのように併記されているのです。
(実際、私は、延辺の朝鮮族のところへ行って見てきています。)
昭和53年の夏、アラスカのボインパロー市へ市長からの招待で行ってきましたが、同市のエスキモーの自治区では、共通語は英語でしたが、小学校ではエスキモー語を教えていました。
細かいことは言いませんが、現在、世界的に少数民族問題が真剣に考え直され、その民族が持っている文化や言語を絶やさない努力がされています。
そういう世界の趨勢に日本も遅れないように本気で取り組んで欲しいのです。
アイヌは好き好んで文化や言語を失ったのではありません。
明治以来の近代日本が同化政策という美名のもとで、まず国土を奪い、文化を破壊し、言語を剥奪してしまったのです。
この地球上で何万年、何千年か、かかって生まれたアイヌの文化、言語をわずか百年でほぼ根絶やしにしてしまったのです」
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"アイヌ" の要求する「アイヌ特権」は,つぎの条件を満たすとき,かつその限りで,日の目を見る:
- 事務方が, 「これの実現は可能である」と定める。
- 行政が 「これの実現は必要である」と定める。
行政は,"アイヌ" が唱える「アイヌ特権」のロジックを認めない。
実際,「アイヌ特権」のロジックは,荒唐無稽である。
行政は,ロジックが十八番である。
実際,「秀才」の集まりである。
「アイヌ特権」の荒唐無稽を信じるような,馬鹿ではない。
一方,行政は,「アイヌ特権」のロジックを認めるふりをすることがある。
それは,「アイヌ利権」グループにいい顔をすることが,自分の利益ないしポイントになる場合である。
こうして,つぎは,「アイヌ特権」として許されるものになる:
- 「家を不自由している人には家を建てて入れる」
- 「向学心に燃えても家庭の経済的事情で進学できない人には国費を出してやる」
なぜなら,「アイヌ利権」グループの中に,この「公共事業」を強く熱望している者がいるからである。
例えば,少子化で経営が苦しい今の大学は,"アイヌ" 子弟を毎年100人くらい別枠で入学させることができるとなったら,たいそうありがたい。
対して,つぎは「アイヌ特権」として許されないものになる:
- 国会議員、道会議員に, 「アイヌ議員」特別枠をつくる
- 「アイヌ語教育をする幼稚園、小・中学校、高校、大学の設置」
そして,許されない以前に,これの事案化はアイヌ協会にとってヤブヘビになる。
《国会議員、道会議員に, 「アイヌ議員」特別枠をつくる》では,「アイヌ議員」選挙民である「アイヌ」が定まらねばならない。
そしてこれを作業すれば,アイヌ協会がアイヌ系統者の代表でもなんでもないことが,暴露されてしまう。
《アイヌ語教育をする幼稚園、小・中学校、高校、大学の設置》は,学校法に則るものになる。
そのために,学校法の改正が必要になる。
そしてこれを作業すれば,アイヌ語を話せる者などいないこと,そもそもアイヌ語を話す場面など無いことが,ばれてしまう。
「アイヌ共有財産裁判」というのがあったが,「アイヌモシリ」を唱えることも,"アイヌ" にはヤブヘビになる。
「アイヌ特権」を主張する自分の資格が何なのか,わからなくなるからである。
即ち,「売ったおぼえも、貸したおぼえもない」を言えば,「<売ったおぼえも、貸したおぼえもない>の主語は何か?」と返されることになる。
「<アイヌ>が主語だ」とは,言えない。
なぜなら,アイヌは,国,民族,部族,どのレベルでも,法人をつくったことはないからである。
「アイヌの私有地だ」は言えないから,個別に「ここは,だれそれの私有地だ」の言い方をしなければならない。
しかし,アイヌは,そもそも「土地私有」の考えをもったことはない。
実際,土地私有制を敷いたら,アイヌはやっていかれない。
一般に,「アイヌ特権」は,「だれがアイヌか?」の問題を引き出すことになってしまう内容のものは,実現しない。
「だれがアイヌか?」の問題を引き出してしまうような内容の「アイヌ特権」は,これを求めれば,ヤブヘビになる。
この構造により,「アイヌ特権」には,論理的な限度がある。
論理的限度の外にあるものは,求めても無駄である。
──例えば,「アイヌ年金」とか。
また,論理的限度の前に,良識的限度というのがある。
「良識的限度」とは,「これを越えるようなことをすると,ひとから嫌われる/憎まれる」というものである。
「アイヌヘイト」は,これである。
「アイヌヘイト」をゴミ扱いしているだけなのは,<学ぶことがない>ということである。
実際,「アイヌヘイト」は,"アイヌ"イデオロギーの鏡である。
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