Up 利権の誘惑 作成: 2017-01-06
更新: 2017-01-06


    利権"アイヌ" は,どのようにして出来上がるか。

    この答えを,つぎのテクストからの引用で構成するとしよう。
      本多勝一「アイヌ民族復権の戦い──野村義一氏の場合」(1989)
       in『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.101-136.

    なぜ本多勝一のテクストか。
    「利権"アイヌ" への道程」の論が,「利権"アイヌ" 批判」の論と受け取られないためである。
    本多勝一は,利権"アイヌ" にもっともベッタリなシンパである。
    よって,本多勝一のテクストを引いているうちは,「利権"アイヌ" 批判」の論と受け取られずに済むというわけである。

    「利権」は,「生きる」の含蓄である。
    「利権」は,ひとの当然である。
    「利権」を倫理の問題にしてこれをネガティブに語るのは,「利権」の意味をわかっていない者のすることである。

    実際,「利権」は,機能概念である。
    「利権」は機能概念であるから,利権"アイヌ" 個人を評価することばは,「力量が優れている/劣っている」である。
    本多勝一はこのテクストで,野村義一を最も力量の優れた利権"アイヌ" として描いていることになる。
    そこで,要所を引用していけば,「利権"アイヌ" はどのようにして出来上がるか」の答えが自ずと出来上がるというわけである。

     
    p.102
     野村義一 (敬称略=以下同様) がウタリ協会理事長になったのは 24 年前、協会にかかわったのはその四年前の1960 (昭和35) 年である。
     だが、理事長になった当時の野村義一は、日本の先住民族としてのアイヌの復権とか、シャモ支配・抑圧への反差別といった問題に対する先覚者として推されたのではなかった。 むしろ協会の財政的危機を克服・再建するための実務家としての高い能力がかわれたとみるべきであろう。

    p.105
    ‥‥‥野村義一自身は、実は古くからの自民党員である。
    現在は協会理事長など北海道全体のアイヌ民族関係の三組織の会長のほか、地元白老(シラオイ)町で社会福祉協議会会長・白老民族文化伝承保存財団理事・白老町文化財保護審議会会長 (町教委)・高齢者事業団会長をつとめるが、「もう齢だから」とこの六月に返上した肩書は、白老観光協会会長・ライオンズ=クラブ会員・町姉妹都市協会役員・白老商業協同組合理事長など 17 組織におよぶ。

    pp.106,107
    野村義一の祖母の兄にあたる「野村エカシトク」は、アイヌ伝統社会での本当の意味での最後のコタンコロクル (首長) だったといわれている。‥‥‥
     コタンコロクル (首長) の資格としては、つぎの四つがそろっていることがアイヌ社会での伝統であった。 男っぷりがいいこと。 外交手腕があること。 弁論の才があること。 包容力に優れること。
     北海道ウタリ協会理事長として野村義一が活躍する様子は、あたかも現代のコタンコロクルをおもわせるところがあるが、あるいはこれは野村エカシトクの後裔(こうえい)の一人であることも一因であろうか。

    pp.111,112
    ‥‥‥アイヌであることをもって差別された記憶は、尋常小学校時代の義一には全くないという。
    その理由の第二に、義一の「学業成績」が抜群だったことがある。
    今も保存してある当時の通信簿を見ると、毎学年「全甲」がつづく。 五年生のとき「操行」(お行儀) だけが乙だが、六年でまた全甲になって、卒業式の総代をつとめた。
     さらに日本人と共学の高等小学校へ進学しても優等生で級長だったことは、アイヌの生徒の少ない高小でも差別のスキを与えない大きな理由になったという。 40 人ほどの同級生のうちアイヌ民族は六人だけだった。 それでも一年一学期は唱歌だけ乙になった。 声もよくて歌が得意の義一のはずが、これには一種の "誤解" が影響した結果らしい。

    p.119
     あくる年 [1949] の三月、白老漁協は野村義一を専務理事に迎えることを決めた。 時に 33 歳の野村もこれを承諾して四月から勤めはじめる。 以後 1973 (昭和48) 年までの 24 年間を白老漁協の発展につくすことになるが、このころから軍隊時代に勉強していた経済の知識が役立つようになった。
    最初にやった大仕事は、当時の(かね)で 1000 万円もあった組合加入漁師たちの負債整理である。 次いでは主として不動産も山林をもとにして漁協の資産づくりをこころがけ、健全経営にしていった。 各部落に魚市場もつくった。 住宅金融公庫の制度を活用して、約 200 戸の漁師の住宅改善もすすめた。 一団体でこれだけの住宅改善をやった例は全国でもおそらくなかったと評価されている。

    p.120
     漁協専務としての役割に全力を傾けていた野村には、だから北海道の先住民族として改めて自覚するような動機なり余裕なりはほとんどなかったという。 森竹竹市(もりたけたけいち)たちが何かやっているらしいていどのことは聞いていたが、当人から聞いたわけでもなし、知らないので関心も薄かった。 北海道アイヌ協会 (のちのウタリ協会) に初めて顔を出すことになるのも、二代目理事長・森久吉(もりきゅうきち)に請われてのことである。 それは 1960 (昭和35) 年に行なわれた協会の定例総会に際してだが、同時にこれは再建大会でもあった。
     このころ、協会は財政的ピンチでゆれていた。 とくに発足当時アイヌの保養施設として登別温泉で道庁から払い下げを受けた北星寮の経営がうまくゆかず、決算報告もないので森理事長の責任問題になっていた。 事務能力・財産管理に長ずる野村を森が連れていったのは、ひとつには責任追及への "防波堤" の役割を期待してのことだったかもしれない。 この総会で野村は三代目理事長に推されたが、まだ事情に暗いし、漁協も多忙なときだったので固辞し、森理事長の補佐役ということで了承された。

    p.120,121
     協会としてこれ以後に力を入れた最初の事業は、アイヌ人口の多いところに隣保館(りんぽかん)を建てることだった。 生活改善の場としての集会所・作業所である。 問題の北星寮はまもなく水害で流失したため、より安全な場所に再建することになった。
    たまたまこのとき、この地区選出の篠田弘作(しのだこうさく)代議士 (自民) が自治相になって、苫小牧で演説会をやった。 同行していた自治省の秘書官がのちの渡辺省一代議士 (自民)、篠田氏の秘書がのちの高橋辰夫代議土 (自民) である (いずれも北海道四区)。
    野村など協会幹部三、四人が会場へ行って再建資金の国庫補助を直訴した。 (野村はこの数年前に漁協専務の立場から自民党員になっている。)
    曲折をへたのち、国から 300 万円のほか、(どう)とアイヌ関係市町村からも出て合計 1000 万円集まった。 あとは銀行から借りて、温泉つきの立派な保養施設「ウセナイ荘」が完成した。
     だが、ウセナイ荘は利用者が少なく、赤字がふえる一方だった。 このままでは協会がまたお荷物を背負うことになる。 総会にはかって思い切って処分した。
    すべての負債を払い、700 万円が残った。 これは協会の基金とし、今も原資に役立てられている。

    p.122.
     漁協退職後に魚の加工事業をするつもりでいた野村は、漁協の近くに土地を借りて工場をたてていた。 一方、漁協は新しい事務所を建築すべく準備をすすめ、一九七三年八月には入札が決まった。 いま駅前にある三階だての新事務所である。 この資金となったのは、加入漁師たちがかせいで分担した結果ではない。 ある大企業が白老に進出したさい、漁協の土地に関連して、「軍隊時代に覚えた経済」で "()(せん)" をつけさせるなど、野村理事長が「頭」でひねりだした結果、だ。

    pp.123,124
    [1973 (昭和48) 年に初めて行なわれたアイヌの] 実態調査のあと 1974 年度から(どう)が政府のうしろだてを得て始めた第一次ウタリ対策七カ年計画は、どうしても重点が経済環境 (教育を含む生活改善) におかれていた。
    1980 (昭和55) 年には計画の成果確認をかねて再び実態調査が行なわれ、あくる1981 (昭和56) 年から第二次ウタリ対策七カ年計画が発足する。‥‥‥
    第二次ウタリ対策からは「文化」──即ち言葉や芸術などアイヌ文化の見直しと普及も柱のひとつに加えられた。
     ‥‥‥
     だが、この第二次対策が発足してまもないころから、野村自身も含めて協会幹部たちのなかから大きな疑問が生じ始める。‥‥‥

    pp.125,126
     このころすでに野村は、かつての「アイヌ問題に無関心な野村義一」ではなくなっていた。 しかしその "変身" がいつからだったかといえば、そんなに明確な節目なり動機なりは思いつかないと野村はいう。
    ‥‥‥
    意地悪い見方もある。 いわゆる「頭のいい」この人は、世の変化を鋭敏にかぎとって、人類史の潮流が先住民族復権へと変わってきたのに合わせたのではないかとか、差別問題で重大な事件が身辺にあったのかもしれないが、野村の誇りがそれを認知しないのではないかとか。
     だが、仮にそれらが事実だとしても、野村の "変身" 自体は評価されこそすれ、非難されるべき性質のものではありえず、ウタリ協会の「顔」としての役割はますます強固なものとなっていった。

     註1 : 「すべての負債を払い、700 万円が残った。」
      「箱物」の利権は,工事受注,天下り,民間払い下げ,の3つである。
      2 : 「野村自身も含めて協会幹部たちのなかから大きな疑問」
      「疑問」の内容は,つぎのものである:
        「自分たちは,利権の輪の外に置かれてしまっている。
         自分たちが利権の中心であるべきだ。