Up 「アイヌ観光地」 作成: 2019-10-21
更新: 2019-10-21


      違星北斗 ( -1929)
    白老のアイヌはまたも見せ物に 博覧会へ行った 咄! 咄!!
    白老は土人学校が名物で アイヌの記事の種の出どころ
    芸術の誇りも持たず 宗教の厳粛もない アイヌの見せ物
    見せ物に出る様なアイヌ彼等こそ 亡びるものの名によりて死ね
    聴けウタリー アイヌの中からアイヌをば 毒する者が出てもよいのか
    酒故か無智な為かは知らねども 見せ物として出されるアイヌ


      貝澤藤蔵 (1931), p.375
     太平洋に面した北海道の一漁村、白老村はアイヌ部落として名高く年々内外人の参観する者が沢山来ます。
    白老村は比較的交通の便よく、駅よりコタン(部落) 迄は僅七町位の道程なれば、短時間にて参観出来、殊に七八十戸のコタンは草葺の掘立小屋多く、昭和の今日猶ほ原始生活を偲ばしむるものがあるからであります。
    私は、コタンの旧家にして参観者の最も多く立寄る熊坂老に頼まれて、近年参観者の出迎へをなしウタリ(同族) 等の生活状態を解説して居た貝沢であります。‥‥‥
     内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類) を着て毎日熊狩をなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んで居る種族の様に思ひ込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります。‥‥‥
     「着物は?食物は?言語は?」とは毎日多くの参観者から決って聞かれる事柄です。
    けれど此様に思はれる原因が何処にあるかとゆふ事を考へた時、私は其人々の不明のみを責め得ない事情のある事を察知する事が出来ます。
    常に高貴の人々が旅行される時大抵新聞社の写真班が随行されますが、斯うした方々が北海道御巡遊の際、支庁や村当局者が奉送迎せしむる者は、我々の如き若きアイヌ青年男女では無く、殊更アツシ(木の皮で織った衣類) を着せ頭にサパウンベ(冠) を戴かしたヱカシ(爺)と、口辺や手首に入墨を施し首に飾玉を下げたフツチ(老嫗) だけです。
    此の老人等がカメラに納められ、後日其の時代離れのした写真と記事が新聞に掲載される時、内地に居てアイヌ人を見た事のない人々は誰しもが之がアイヌ人の全部の姿であると思ひ込むのも無理ない事だらうと思ひます。
    否々其ればかりではなく、時偶(ときたま)内地に於て内地人がアイヌ人を見受ける時は、山師的な和人が一儲けせむものと皆を欺し、アイヌの熊祭と称して見世物に引連れて居る時であります。


      菅原幸助 (1966) : pp.79-82.
     登別温泉に近い白老町の観光コタンも、見せ物アイヌで有名になった。
    私は六月のある日、観光客にまじって、"アイヌコタン" の見物にでかけた。
     町はずれの国道に何十台も観光パスが列をつくって止まっていた。道から二十メートルほどのところにある観光コタンには、修学旅行の女子学生や、本州からの旅行団体の人々がごったがえしていて、お祭りのようなにぎやかさだ。
    ベニヤ板でにわかづくりのおみやげの店の前で、若者が腕をまくしあげ、クマ彫りの実演をやっている。
    これをとりまいている黒山のひとだかりのなかで、腕章をかけ小旗を手にしているのが旅行団の案内人だ。
    近くの広場では、アッシ (アイヌの着物) を着たエカシ(長老) やバッコ(老婆) がモデルになり、大勢のお客さんと記念撮影をやっている。
     ひとびとの間をかきわけるように、メノコ(娘) たちが「クロユリの球根はいりませんか」「エゾマツ、トドマツの苗木はいかが」「スズランの苗をおみやげに」などとふれながら、忙しそうにお客の間を歩き回っている。
    おみやげの店の前には、生まれて二カ月ぐらいの小グマが、鉄のクサリにつながれていて、店の前をいったりきたりしていた。
    すぐそばでリンゴ箱に坐って、ひなたぼっこをしていた老婆に、腕章をかけた旅行案内者が近寄って行った。 金を包んだ紙包みを渡し,なにか話していたが、口にいれずみをしたその老婆が、にっこり笑って頭をたてにふると、わらぶき屋根のチセ(家) の窓から中に声をかけた。
    「みんなでできてよ。ウポポ (アイヌ踊り) をやれとよ」
     原色のアイヌ模様のキモノを着て、口にいれずみを墨で書いた女たちが、けだるそうにチセからでてきた。
    やがて老婆が先頭になってウポポがはじまった。
      ホーイ ホーイ ポロロロ ポロロロ
     鳥の声に似た、京愁に満ちた歌と仕草がくりかえされ、女たちは輪になって青空を眺めながら、足や手を動かしている。
    旅行者たちが手にしていたパンフレットには「アイヌ民族に伝わる神秘な踊りを見学」とあったが、ウポポの原形はやつされていて、かなりでたらめな踊りになっていた。
    けれども,輪になってウポポを見物している観光客に、そんなことが解るはずもない。
    この異様な歌声と踊りを見物しているうちに「はるばると海を渡って、北海道まできたのだ」という異国情緒にひたるのかも知れない。
     私が親しくしているアイヌの老人がひとり、この白老観光コタンで写真のモデルをやっている。
    むかしはクマ射ちの名手だったが、二人の息子が戦死、生活に追われて見せ物になったエカシ(長老)である。
     ‥‥‥
     エカシの話では、クマ彫り職人も実演をやる看板男だけアイヌを雇って、本当のクマを彫っているのはみんなシャモの職人、そのシャモのクマ彫り職人は店の奥の仕事場で木工機械を使ってクマ彫りの大量生産をやっている。
    クロユリの球根を売って歩いているメノコたちも、シャモの娘が顔をメノコのようにつくろっているのだ。
    本物のアイヌは観光コタンをきらって逃げだし、シャモがアイヌに化け、本州のシャモから、がめつい金もうけをやっているという。

      同上. pp.82-84
     白老町では若いアイヌ青年たちが中心になって、観光コタンをなくする運動をやってきたが、観光コタンはさびれるどとろか、逆に、北海道観光ブームと共に繁昌するばかりだ。
    観光コタン反対運動を進めてきた青年たちにとって、頭の痛い問題である。
    町のお祭りや記念行事があると「白老の町はアイヌで知られているから、アイヌのイヨマンテ (クマ祭り) をやって人を集めよう」ということになる。 青年たちはそのたびに「日本の神社のお祭りや町の記念行事にアイヌを引き合いにだすことはあるまい」と反対してきたが、アイヌのクマ祭りがシャモたちの手で行われてしまうのである。
     いま繁昌している観光コタンにしても、青年たちはいろいろな方法で抵抗をこころみてきた。
    駅や街頭に「観光アイヌコタンはこの先五百メートル」などという立看板が立つと、青年たちは夜中にこっそりと、この看板を海に投げ捨てた。この看板は捨てては新しく立ち、立てては捨てるというイタチごっこがくり返されている。
     青年たちを指導してきた白老町漁業協同組合常務理事野村義一さんは、くやしそうに私にいった。
     「 アイヌの人たちは観光コタンをきらってよりつかない。そのコタンはさびれてゆくが、すぐ新しい観光コタンができるのです。観光事業家がやってきて、貧しいアイヌを他町村から集めてきでは新しい観光コタンがつくられるのです」
     先年、北海道庁が白老町の観光をふくめた町づくり診断をやったことがある。その報告には、
       本州の観光客はアイヌの姿に接することで北海道の印象を深める。
    それにはいまの観光コタンは近代的で、自然のアイヌの姿を表現していない。 現在の観光コタンを、町から一キロほど離れたポロト沼に移住させ、むかしのアイヌの生活様式をやらせるべきだ。
    興味をますためにはショーであってもよい。 そうすることで収入がふえれば、アイヌの生活は向上し、観光白老町の発展になるではないか。
    と結論している。
     これにはコタンの青年たちもカンカンになって怒った。
    「北海道の役人までが、観光業者のお先棒をかついで、アイヌをむかしの姿に引きもどそうとしているのか!」。
    青年たちは観光コタンのポロト沼移転に反対運動をはじめた。
    しかし、この観光診断の報告にもとづいてさっそく、ポロト沼観光開発会社という会社がつくられた。 そして着々と新しい見せ物アイヌのコタン建設が進んだ。





    引用文献
    • 違星北斗 ( -1929)
        『違星北斗遺稿 コタン』, 草風館, 1995.
    • 貝澤藤蔵 (1931) :『アイヌの叫ぴ』, 1931
        所収 : 小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998, pp.373-389.
    • 菅原幸助 (1966) : 『現代のアイヌ』, 現文社, 1966.