Up 「アイヌ」パフォーマンスは,なり手を問わない 作成: 2019-10-25
更新: 2019-10-25


    「アイヌブランド」の「アイヌ」認定は,何を以てするか。
    「アイヌの系統」?「アイヌの血」?
    しかしだれにも「アイヌの系統」の可能性はある。
    そしてアイヌの血は,「これを残しているアイヌ系統者は,稀な存在」というものになる。

    では,系統・血をしっかり検査して,「アイヌ」と認定しようか?
    しかしこのときは,誰がどのように検査するかという問題になる。
    そして,そんな検査はそもそもできることではないし,系統・血をはっきり辿ることが(かな)わない "アイヌ" は,この方法に反対するだろう。


    そもそも「アイヌ」認定は何のためのものだったか。
    「アイヌ」パフォーマンスを許可制にするためものである。
    しかし,この許可を「アイヌの系統」「アイヌの血」を以てすると,おかしなことになる。
    「アイヌ」パフォーマンスは,「アイヌの系統」「アイヌの血」を要するものではないからである。

    その「アイヌ」パフォーマンスは,代々受け継がれてきたものではない。
    あちこちから引いてきて,繋ぎ合わせたものである。
    そして適当に形を整えたものである。
    それは,「誰がやっても同じ」となるものである

    実際,「アイヌ」役に雇われる "アイヌ" は,この役を務めるのは "アイヌ" でなければならないという思いを持てない。
    そして雇い主は, "アイヌ" でない者に「アイヌ」をさせようという気を起こす。
      菅原幸助 (1966), p.82.
    エカシの話では、クマ彫り職人も実演をやる看板男だけアイヌを雇って、本当のクマを彫っているのはみんなシャモの職人、そのシャモのクマ彫り職人は店の奥の仕事場で木工機械を使ってクマ彫りの大量生産をやっている。
    クロユリの球根を売って歩いているメノコたちも、シャモの娘が顔をメノコのようにつくろっているのだ。
    本物のアイヌは観光コタンをきらって逃げだし、シャモがアイヌに化け、本州のシャモから、がめつい金もうけをやっているという。


    引用文献
    • 菅原幸助 (1966) :『現代のアイヌ』, 現文社, 1966.