Up | "アイヌ" のアイデンティティ問題 | 作成: 2017-01-07 更新: 2019-10-08 |
文学"アイヌ" は,"アイヌ" のアイデンティを主題化し,論考をつくる。そして一応の区切りをつけたところで,"アイヌ" シーンから降板する。 そして政治"アイヌ" は,"アイヌ" のアイデンティを民族主義イデオロギーで解決しようとする:
政治"アイヌ" は,「アイヌ民族エスノサイド」の幻想で自身を保つ。 よって,「アイヌ民族エスノサイド」の幻想が衰微しないよう,これの強化に努める。 「強化」は,「共同で確信犯的に行う」に及ぶ。 実際,政治"アイヌ" は,「アイヌ民族エスノサイド」が虚偽であることを知っている。 ──そもそも自分たちがこの虚偽をつくったのであるから。 一般者は,この事情を知らない者たちである。 一般者は,「アイヌ民族エスノサイド」のことばを聞けば,これを真に受ける。 政治"アイヌ" は,ほんの僅かの人数である。 ほんの僅かの人数であるが,「アイヌ民族を代表して」を唱え,パフォーマンスすることで,彼らのバックにアイヌ民族が控えているという幻想をつくり出すことができる。 政治"アイヌ" が現れたのは,"アイヌ" の歴史では比較的新しく,1970年頃である。 それは新左翼台頭の時代であり,そしてこれに危機感をもった旧左翼が運動を高めた時である。 これら陣営の中から,「社会主義体制による民族解放」を掲げて "アイヌ" のオルグをする者が現れる。 政治"アイヌ" は,このとき彼らの論に傾倒した "アイヌ" である。 政治"アイヌ" は,権利獲得運動に進む。 「権利獲得」は,「権益獲得」がこれの形になる。 「アイヌ利権」の始まりである。 「アイヌ利権」は,同床異夢の者たちの集まりである。 "アイヌ" も,一様ではない。 しかしこの時まで "アイヌ" を続けてきた者は,アイヌに扮することを生業にしてきた者 (「観光アイヌ」) が多い。 こうして「アイヌ利権」は「アイヌ観光」に回収されることが自然なものとなり,実際そうなっていく。 「アイヌ利権」が「アイヌ観光」に回収される過程で,政治"アイヌ" 外しが起こる。 「アイヌは,うちに怨念を潜ませている者たちである」となれば,「アイヌ観光」は立たないからである。 こうして,営利"アイヌ" が "アイヌ" として残るものになる。 政治"アイヌ" から営利"アイヌ" への移行は,コンプライアンス社会の到来で,さらにはっきりしてくる。 それまでの「アイヌ交付金」は,政治"アイヌ" を慰撫する意味合いがあった。 丼勘定と馴れ合いで,"アイヌ" の団体や特定 "アイヌ" に丸投げされた。 しかしこれはもう通らない。 交付金の対象になるのは,目標を数値で明示した「アイヌ振興事業」計画である。 そして, "アイヌ" は,「アイヌ振興事業」の「アイヌ」を務める者のことになる。 ここに,「"アイヌ" のなり手」「"アイヌ"後継者」が問題になる。 "アイヌ" をやることの旨味が減ることになったからである。 "アイヌ" は,旨味のためにやるものではなくなった。 ── "アイヌ" であるとは,「アイヌ」を演じることを仕事・責務として負うということである。 さて,"アイヌ"のなり手が都合良くいてくれるものか? 実際,"アイヌ" 後継者づくりは,「アイヌ利権」の都合であって,"アイヌ" の都合ではない。 "アイヌ" は,「アイヌ振興事業」の中の自分の役割に満足するわけではない。 役を務めるとは,葛藤を押し殺して役を務めるということである。 役を務めるのは,成り行きからである。
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