Up 左翼イデオロギー 作成: 2019-10-22
更新: 2019-10-22


    世の中を<抑圧者 対 被抑圧者>に見て,抑圧者が倒され被抑圧者が解放されることを夢見る。
    この思考傾向の者を,左翼という。
    左翼は,物事に善悪を立て正義の勝利を夢見る思考傾向の一つである。
    ──抑圧者=悪,被抑圧者=善。

    "アイヌ" は,左翼が「"アイヌ"=被抑圧者」と措いて利用するものになる。
    いろいろな左翼が,"アイヌ" をオルグしようとして現れる。

      高橋真 (1946), p.235
    アイヌの味方 日本共産党
    日本共産党北海道地方党会議は一月中旬札幌に於て華々しく開催されたが、同会議で村上由氏 (道労働組合聯盟執行委員長) から「アイヌ救護に関する件」が提案され、「アイヌは永い間差別されて来てゐる、今にして彼等被圧迫階級を解放せねばアイヌは滅亡する」旨を説明するや多数の党員達は無条件で賛成「アイヌ救護絶対支持」と決議され委員として札幌弁護士会の雄木田茂晴氏、アイヌ政策研究家中田吉雄氏及び村上氏等の党員が選ばれ今後アイヌ問題の解決に全面的に努力する事になった。

      本多勝一 (1971), pp.92,93
     結論は、かなりはっきりしてきたようだ。
    少数民族は、少なくとも私の接した諸外国の例でみるかぎり、社会主義社会でこそ真に幸福が約束されている
    いわゆる西側諸国、資本主義諸国の少数民族は、ひとつの例外もなく不幸だった。 私の訪ねたことのない国に関してはよく知らないが、真に幸福な、プタの幸福でなくて、民族的誇りをともなった幸福感を抱いている少数民族というもののある資本主義国があったら、ぜひ知りたいと思っている。
     だが、これもまだ訪ねたことはないが、社会主義社会でもソ連はどうなのだろうか。 スターリンは一種の少数民族出身といえよう。 チェコやポーランドとの関係でのソ連には、いわゆる修正主義の欠陥が現れているようだが、ソ連内の少数民族はどうなっているのか。 同様に多数の少数民族をかかえる中国はどうか。 いずれも訪ねて実見してみたいところである。 現状は見るまでおあずけとしても、社会主義建設がもし理想的にいっていれば、少数民族が幸福になるはずであることは確かだが、資本主義建設 (?) がいくら理想的にいっても、少数民族が幸福になることは、まずおぼつかないであろう。
     アイヌ系日本人についても、これは当てはまるのだろうか。 社会主義社会というようなことをいうと目をむく人があるので、少し遠慮がちに一言うならば、当てはまらないと結論するような材料は今のところ持ちあわせていなぃ。 従ってアイヌが真に幸福になる道は、日本が社会主義国になることであろう。 アイヌ自身のとるべき道は、従って革進陣営に何らかの形でくみすることであろう。 (最近アイヌ系日本人によって創刊された雑誌『北方群」には、明らかにそのような方向を示していることが感じられ、心強く思われた。)
    革進政党のとるべき道は、ペトナムの例が示しているように、少数民族がへレン・フォークに対して抱きつづけてきた怨念を、革命勢力に正しくくみこみ、強力なパネへと転化させることであろう。
    アイヌについて「良心的」たろうとするシャモのとるべき道は、従ってこのような運動に何らかの方法で、それぞれが可能なやりかたで、加わることであろう。 いかにアイヌ「仲良し」になって「研究発表」してみても、それだけではいつまでも状況は変らぬであろう。 それでは「観光アイヌ」もクマを彫りつづける以外に道はないであろう。

      惠原琢躬 (1974), pp.7-8
     まず "経過説明" が、行われた。
    『日中国交回復前の1971一年7月29日、社会党の川村清一参議院議員や岡田 [春夫, 社会党衆議院議員] 氏の案内で、中日備忘録貿易弁事処主任代理の王作田氏、文匯報駐日記者の蒋道鼎氏らが、平取町二風谷を来訪し、アイヌの歴史や現状、少数民族問題で意見を交換。
    11月21日、岡田氏が平取町二風谷を訪れ、マンロー記念館での懇談会の席上、王作田氏より二風谷に対して中国への招待の意向があったと報告をした。
     1972年10月22日、北京日報記者王泰平氏が、岡田氏の案内で北海道新聞社の記者と共に、平取町二風谷の貝沢正氏宅を訪問し、意見を交換した。
     1973年2月5日、貝沢氏と沢井氏が岡田氏の案内で、中日備忘録貿易弁事処を訪問、王作田氏と蒋道鼎氏に会って、10名位で訪中したい旨申し入れる。
    10月、岡田氏が訪中の際、中日友好協会の廖承志会長、孫平化秘書長と会見。 アイヌ訪中について、更に申し入れたところ、陳楚駐日大使と相談のうえ、決定したいとの返答があった。
     12月1日、陳楚大使、蕭向前参事官夫妻他6人が平取町を訪問、二風谷生活館で約20人と懇談した。 その席上、貝沢氏が「中国の少数民族の現状を知りたい、アイヌとの交流の場をもうけて欲しい。」と、要望した。
    これに対して、陳楚大使は、
     「 中国には50族余、約3000万人の少数民族がいる。革命後、一切差別はなく、平和に暮している。アイヌの人達を中国へ招待したい。」
    との意向を明らかにした。
    次いで、旭川での陳楚大使歓迎パーティの席上、門別氏らにも招待したいとの話があった。
    1974年1月4日、中日友好協会はアイヌ訪中団15人以内を3週間招待する旨、駐日中国大使館へ打電があったと、王作田氏から岡田氏へ連絡。
     この后、平取町二風谷で貝沢氏がとりまとめ役となり、人選に入った。‥‥‥』

      戸塚美波子 (1974), p.20
     私が中国へ行く前も、そして帰って来た後も私に対して、中国の政治は悪いとか、特定の人間しか入国させない国だとか言う人がいるけれど、そういう人はどこまで考えて話しているかな、と思う。
    私が、中国ベッタリになったような事を言う人もいるけれど、私はそれでもいい。
    言いたいやつは言え、私は、中国の人々が好きなのだ。
    とにかく、行って来てから、反論するならして、悪口を言いたいのなら言えばいい。
    私は私の行った場所と、そして、それによって受けた印象と、それ等をもとにして私なりの対応をしようとおもっている。
     ‥‥‥
     他の人がどんなに中国の悪口を言っても、あの優れた少数民族対策には頭が上がらないでしょう。
    中国に行って初めて、アイヌに生まれて良かったな、としみじみ思いました。

      太田竜 (1973), pp.186-188.
    私が右の二通の手紙を送ったのち、結城氏は、[1972年] 十二月はじめに、東京で、「アイヌ独立の魂は、呪いの戦い、怨念と化し、自然を背景に燃え続けて来た」という文章を書いた。
    そこで彼は、アイヌ共和国独立の革命戦争、世界革命の原点、日本原住民、日本帝国主義などについて、叙述している。
    彼は、一見、スタイルを変えたのである。
     彼は、アイヌは平和を好むとか、アイヌは暴力を使わないとかいうスタイルを、ここでは捨てている。
    このことは、私の路線と彼の路線の接近を示すものであろうか。
    左に、この文章全文を引用しておこう。
     天皇軍は、原住民アイヌを、北辺に封じ込め、戦いが完全に勝利したかのように、歴史を歪曲しているが、そのごまかしは一九七二年に、原住民精神をつらぬく人々によって粉砕された
     「原住民精神」、それはアイヌ共和国創造への胎動である。
     現在もなお、天皇軍の手先共 (日本帝国主義機構の総て) は、アイヌが誇りとする、原始自然を破壊・略奪し、一九七三年に向けて日本列島改造部隊は、日本最後の原始境・アイヌの聖地 (大雪山) をも、解体青写真を製作してしまった。
     アイヌ共和国独立の戦いは、歴史に敢然と輝やく、アテルイとコシャマイン、シャクシャインの戦法 (ゲリラ作戦) によって、開始されなければならない
     天皇軍は、常に平和的甘言をもちいて、日本原住民の首をはね、原始共産制への民族の流れを、断ち切ろうとした。 この策略は失敗に終り、再度、日本帝国主義者共、天皇支配にたいし、アイヌ共和国独立の戦い、最前線連帯軍は結集されつつあることを、人民に宣言する。
     我々共和国同胞は、腐りきった天皇軍農耕文明を、徹底破壊し、その戦いを世界革命の原点としなければならない
     日本帝国主義者の総てを、自然を喰い荒す「怨獣」と考え、怨獣のたれ流す糞尿は、「公害」といってよいだろう。
     糞尿を喰わされるのは、常に「人民」であり新鮮な「自然」を喰うのは、常に怪獣 (日本帝国主義者) である。
     天皇が支配して来た、農耕文明はいつわりの神を祭り、仏教をとりいれ、日本原住民を、大和化し皇民化することに専念して来た。 現在も、アイヌを同化政策により、自らの罪悪の責任を回避しようとして失敗した。
     アイヌは、「自然─神秘─人間」を、自然主義とし、自然の神秘を神々とし、原始共産世界を自由の天地と考え、日本原住民の狩猟文化を護りぬいたのであり、北辺に強く生きているし、これが日本原住民の原点である。
     日本原住民の原点を、アイヌ共和国独立の同志は、常に忘れてはいなかった。 それは、生命への連帯であり、人間が自然 (大地) に戻る原則なのだ。 独立の魂は、永遠に燃え続けるのである。
     日本帝国主義者は、現代文明の中に喘ぐ人民を救おうとしない。 それどころか、人民の共有する自然をも、取りあげて、人間の精神の衰弱を図り、世界支配の野望に燃え、兵隊化しようと企らんでいるのである。
     アイヌ共和国独立の同志は、人間の原点に戻り、世界支配 (帝国主義) を、完全に粉砕しなければならない。
     一九七三年は、世界に同志を求めながら、画期的な革命戦争への日本原住民戦法により、日本歴史は、ぬりかえられて行く時となるであろう
    アイヌ解放同盟 結城庄司  

      小川隆吉 (2015), pp.132-134
     横路知事のもとで、国会に提出する議案を道議会で審議するための案の検討が始まった。 北海学園大学理事長森本信夫委員長以下14名。 私はウタリ協会の新法特別委員会のメンバーとして参加しました。
    そこに北星学園大学の土橋信夫先生がいた。
    アメリカ・カナダ・オーストラリアのインディアン、アボリジニー、マオリに対する制度政策を博物館などから説明を受け、パンフレットなどを持ち帰った。
    キングサーモン、ベニザケの採捕権利が認められていること、カジノで働くインディアン、ニュージーランドではマオリの国会議員の当選者を出していること、土橋先生の持ち帰ったビデオを見てがくぜんとした。
    アイヌ民族にとって生物の採捕権は旧士人保護法成立と引き替えに奪いつくされていた。 それが今日もつづく。 何が先進国だ。
     旧土人保護法がどんなものかつて学習会をやるまでほとんど知らなかったんだ。
    あの学習会で初めてじかに読むことになったんだ。
    それは俺ばかりではなかったと思うよ。
    河野先生は毎回資料を持ってきてくれて、みんなが読めないとなると大きな声で読んでくれて、そのあと説明もしてくれた。
    俺らアイヌは聞く一方だった。
    参加者は、沢井アクさん、石井ポンベさん、早苗、その他何人もいた、ときには20人以上もいた。 そのうち参加者は増えたけど酒を飲んでくるものがいたりして混雑したなあ。 あの当時、金はとらないで教えてくれた学者は河野先生しかいなかった。
    講師にはそのあと山川力さん、釧路から山本多助エカシにも来てもらった。 ビッキが講演したこともあった。
     ウタリ協会で「新法特別委員会」がつくられて俺もその委員になっていたが、「アイヌに関する法律 (案)」を書く段階になった。
    山川力さんが顧問役だった。
    委員長は貝沢正さんで俺に「この法律を制定する理由」を書いてみなさいと言われた。‥‥‥
     貝沢正さんがアイヌの中心になっていたが、主に漁業だとかの経済のところ、それにアイヌ民族の政治参加、議席のところにこだわって書いていた。
    山川力さんが最後に文章を直してくれた。



    引用文献
    • 高橋真 (1946) :『アイヌ新聞』創刊号, 1946-03-01.
        小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』「アイヌ新聞」, 草風館, 1998. pp.234-276
    • 本多勝一 (1971) :「凌辱者シャモにとるべき道はあるか」
        『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, 旭川人権擁護委員連合会, 1971. pp.79-94.
    • 惠原琢躬 (1974) :「札幌──広州メモ」
        『北海道アイヌ中国訪問団記 1974年2月20日〜3月13日』, 北海道アイヌ中国訪問団, 1974, pp.7-17.
    • 戸塚美波子 (1974) :「北京の灯」
        『北海道アイヌ中国訪問団記 1974年2月20日〜3月13日』, 北海道アイヌ中国訪問団, 1974, pp.18-20.
    • 太田竜 (1973) :「御用(ツキノエ)アイヌへの挑戦から始めよ」
        太田竜『アイヌ革命論──ユ-カラ世界への〈退却〉』, アイヌ共和国情報部 (新泉社), 1973, pp.166-188.
    • 小川隆吉 (2015) :『おれのウチャクマ』, 寿郎社, 2015.