「アイヌ予算」の名分は,はじめはつぎの二つであった:
a.「アイヌの貧窮に対する手当」
b.「アイヌ文化の継承」
"アイヌ" 運動は,この名分で「アイヌ予算」を獲るまでに成長する。
そしてこの成長は,「アイヌ利権」の成長でもある。
「アイヌ利権」は,"アイヌ" を超える存在になる。
「アイヌ利権」は,"アイヌ" を自分の都合のよい存在にする。
"アイヌ" を,「アイヌ利権」の御輿に乗る存在に見なす。
そしてこの御輿に乗る/乗せられる "アイヌ" がいる──利権"アイヌ"。
"アイヌ" のうちには,イデオロギータイプの名分をつけようとする者──政治"アイヌ" ──がいる。
彼らは,「アイヌ予算」をつぎの名分で求める:
c.「アイヌの損害に対する賠償」
d.「アイヌの権益に対する給与」
そして,この名分のロジックとして,「アイヌ民族」「ジェノサイド」「アイヌモシリ」を立てる。
「アイヌ予算」獲得は,政治である。
イデオロギーの鮮明化・先鋭化は,「アイヌ予算」獲得で不利に働く。
「アイヌ利権」にとって,政治"アイヌ" を内に抱えることは,爆弾を抱え込むふうになる。
「アイヌ予算」の実現は政治"アイヌ" の運動の賜であったが,「アイヌ予算」が実現してしまうと,政治"アイヌ" はじゃまな存在になる。
パラサイト勢力は 利権"アイヌ" を取り込んで,政治"アイヌ" を排除していく。
小川隆吉『おれのウチャシクマ』, 寿郎社, 2015.
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pp.75-77
全国アイヌ語る会 (第一回) は、昭和48年一月、札幌のほくろう会館でやった。
ビッキが実行委員長で司会もやった。
200人も集まった。
言い出したのももともとピッキだったし。
北海道新聞に写真つきで大きくのってる。
書いてくれたのは山川力さんだ。
釧路の山本多助エカシ、千歳の小山田愛吉エカシ、森竹さん、織田ステノさん、石井清治さんもいた。
みんな喜んでた。
いろんな人が手をあげて、エカシの順番も出身の順番もなく、フチ (女性年輩者の尊称) もいろんなことをボンボン発言した。
長老の人たちは、ウタリ協会──戦前のも戦後のも──を立ち上げるときの苦労したこと、辛かったことなんかが多かった。
それから最初の選挙運動の苦労話も多かった。
和人の学校の先生も、学校でのアイヌの子どもの話をした。
今考えるとあのときが一つのピークだったと思う。
当時の新聞にも書いていたけど、アイヌの自立に向かう可能性が示されたと思う。
今いちばん記憶に残っている嬉しい集まりだった。
勇気を得た。
今でも効いている。
だけど反対に、道庁には、アイヌは自立させてはならんという気をおこさせたんでないかな。
pp.135
俺は貝沢さんに理事長になって欲しいと思っていた。
貝沢さんは徹底したアイヌ精神の持ち主だったからだ。
特に中国に視察に行ってきてからが、言うことやすることに迫力が加わった。
モンゴルだとかの少数民族と交流してきたんだ。
旧土人保護法に対する批判が鋭くて徹底していた。
アイヌの仲間に対しては悪口は言わないで、良いところははっきりと評価した。
俺は、理事会などで貝沢さんの顔を見ると安心したものだ。
人間としての目標だとも思っていた。
ある時、札幌市の教育委員会が貝沢さんに一生のことを話して欲しいといって生活館で話を聞いたことがある。
その時俺も一緒したが、テーマをはっきりと決めて淡々と話を進めた姿を今でも忘れない。
「アイヌ史』を作ろうと言ったのも貝沢さんだ。
貝沢さんが亡くなったのがほんとに惜しい。
貝沢さんがウタリ協会の理事長になれなかったのは道庁の意向があったからだと思う。
今でもそう思っている。
pp.137
「アイヌ文化振興法」ができる前の年の総会で、野村義一さんが理事長からおろされた。
野村さんがアイヌ新法を実現する先頭に立っていたんだ。
あの人は、新しいアイヌ法の下でも理事長を続けたいという気持ちがあったと思うよ。
なのに理事会の投票をやったら笹村に決まってしまったんだ。
同時に俺も理事から外された。
あれはクーデターのようなものだった。
ウタリ協会の転換点だったと思う。
うしろで政治家が動いていたのでないか。
一時「アイヌは日本人に同化して消滅した」なんて言う政治家もいた。
野村さんのあとウタリ協会理事長になった笹村は、「文化振興法」がウタリ協会のアイヌ新法案と全然違うのに一言も文句を言わないんだから。
共有財産裁判にも何度も協力を頼みにいったけど全く何もしなかった。
野村さんは裁判を支援する会の顧問になってくれた。
白老まで大脇さんと頼みに行ったんだ。
pp.185,186
北大から開示のあった年の10月に「アイヌ政策のありかたに関する有識者懇談会」が、北海道の現地でヒアリングをした。
東京から佐藤幸治先生などの委員、道内ではウタリ協会理事長の加藤忠、北大の常本教授やら高橋はるみ知事とかが参加することになっていた。
札幌支部のアイヌの何人かに出席の案内がきていて早苗もその一人だった。
「あんたには来てないの」と言うんだよ。
俺はそのことを前日になって早苗から聞いたんだ。
急いで阿部ユポに電話して「明日はなんかがあるようだけど私には連絡がないね」と聞いた。
阿部は「来てもいいよ。ただし傍聴だよ」と言った。
つまり発言権はないということ。
次の日、会場のピリカコタンに行った。
その時、北大から開示された遺骨関係の人骨台帳やら、アメリカ・カナダ・オーストラリアでは総理が替わるたびに先住民族に謝罪しているのを書いた新聞の切り抜きをみんなの分を持って行った。
記事のうち首相が謝罪している写真がついたものだったが、新聞の名前がなかった。
それで急いで札幌市中央図書館に行って──パス、地下鉄と電車乗り継いで──行って探してもらった。
随分待って係のお姉ちゃんが「ありましたよ!」って階段から降りてきた。
『赤旗』の記事だった。
よく探してくれたと思ったよ。
ヒアリングの会場には、有識者がズラッと並んでいた。
これと向き合ってウタリ協会札幌支部の連中が20人ばかり並んでいた。
会場に入っても俺の席はないんだ。
それでそこに来ていた秋山審議官のところに行き、名刺を出して「私の特別発言を認めてください」と言った。
秋山氏は「いいですよ、ただし最後ですよ」と簡単に認めてくれた。
それから誰かが出してくれた椅子に座った。
会議が始まると委員のほうから色々質問が出されたんだが、答える方はどれも肝心なことを外しているんだ。
ぼやっとしたことは話しても肝心なことは誰も、なんにも言わない。
最後に俺の番がきたので用意していった資料を配って色々話した。
特に遺骨の問題についていっぱい話した。
俺はその時頑張ったんだ。
最大にエネルギーをだして頑張ったんだ。
早苗が後ろに来て「あんたもう止めなさい」と言うんだ。
そのくらいしゃべった。
ああいう場では、肝心なことに触れる話はみんな避けてるんでないか。
それより秋山氏は許可したのに、阿部は話すなという態度だ。
俺はアイヌによって差別されたことが悔しいんだ。
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この類のストーリーは,どの分野にもある。──普遍的である。
実際,これは「遷移 transition」の標題で生態学の主題になるものである:
フラスコに水を入れて放置する
この中に,空気中に漂っている微生物が落ちてくる。
そしてこれが,フラスコの中に「遷移する生態系」を現す:
(栗原康『かくされた自然──ミクロの生態学』, 筑摩書房, 1973. )
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