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佐々木昌雄「「アイヌ」なる状況」(1973)
『幻視する<アイヌ>』, pp.124-144.
p.130
「アイヌ独立」ということばが、最近また声高になってきたためでもないだろうが、この「日本」の行政機関もまた、策を講じ始めている。
事のキッカケは今年三月五日の衆議院予算委員会第三分科会での野党議員の質問である。
(質問者は北海道四区──空知・胆振・日高支庁管内──選出の社会党所属代議土岡田春夫。‥‥‥)
p.139
今回の場合、野党議員は冒頭にこう訊ねた。
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岡田‥‥‥
政府は、アイヌ民族についてほんとうに積極的な政策をおとりになっているつもりなのかどうか。
それからまた、今日厚生省がアイヌ民族の問題をやっておりますけれども、これは一般の低所得階層に対する社会福祉政策の一部として行なっているのか、あるいはまたアイヌ民族それ自体に特別な政策を行なっているのか、どういう観点でこれを行なっているのか‥‥‥
斎藤 (厚生大臣) ‥‥‥
このウタリ、アイヌの方々に対する私どもの基本的な態度は、アイヌは日本国民の中の別な民族である、こういったふうな考え方は一切考えておりません。
あくまでも法のもとにおいて平等な日本国民である、こういう基本的な考えに立っておりますが、このアイヌの方々が、いま申し上げましたように、所得の面においても、また職業の面においても、進学の面においても、生活保護の面においても、その生活環境が非常に劣っている。
これを何とか日本国民並みに高めていかなければならない、福祉を向上さしてあげなければならない、こういう観点で今日まで努力をいたしておるつもりでございます。
予算的な面にはあるいはまだ十分でない点はあると思いますが、その生活を向上せしめるという考え方に立って努力をしておるような次第でございます。
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p.141
「アイヌ」が求めているのは、「保護」だろうか?
あるいは「日本国民並み」の扱いだろうか?
個々の「アイヌ」を自称する者の胸の内は、それぞれまちまちであるわけだから、確かに「シャモ」が蔑すむように、卑屈な物腰で「保護」の一切にありつこうとする者もいる。
しかし、卑屈であるか、誇り高いか、などというところに問題があるのではない。
むしろ、遂に「保護」という枠でしか発想できない「日本」の返照が、「保護」を欲する「アイヌ」であり、ただ反転しただけの対応像であることに気づかない人々の感性の内にこそ問題が所在している。
そういう人々の中には、皮肉にも「民族の誇りを自ら放棄するな」などと「アイヌ」を叱咤激励する者たちもいるのである。
今、「アイヌ」が要求していることは、具体性に富んだ云い方だけを取り集めれば、一見、物取り主義者の要求のように見えるかも知れない。けれども、一貫して底にあるのは、生活する者の想い──それを怨念と呼ぼうが、人間回復の希求と呼ぼうが、民族の復権と呼ぼうが──即ち、自らの生き様を奇妙な形に決定されてしまうことの拒否である。
p.144
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岡田‥‥‥
最後に私が伺っておきたいのは、ウタリ対策の中で、民族ということになると、ウタリに自主性をできるだけ与えなければだめです。
ところが、北海道ウタリ協会というのはどうですか。
一年に六十万円補助金を出して、そして道庁の補助機関みたいに道庁の中にあるのです。
これでは自主性はないのです。
こういう点もやはり抜本的に考えて、ウタリに自主性を与えるということについてもお考えいただきたい‥‥‥
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「アイヌ」は、この「日本」から「自主性を与え」られなければならないような、脆弱な人間であるのだろうか。
「自主性を与える」というような感覚は即ち「保護」してやるという感覚と同一であり、結局は支配する者の感性である。
このような自らの感性に気づかない岡田春夫は、彼の所属する政党が今日まで「アイヌ」についてどう関わってきたかを省りみようとさえせずに、もっぱら政府批判をするのだが、まず社会党員としてそのことから調べ直すのが当然の政治活動ではないのだろうか。
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実際のところ,佐々木昌雄のこの批判は,やり損ないである。
岡田春夫の趣旨は,「<保護>ではなく,<民族・自主>だ」だからである。
やり損ないの原因は?
批判の構えが,最初から前のめりだからである。
佐々木昌雄の考え方は,つぎのものである:
政治主導になると「自らの生き様を奇妙な形に決定されてしまう」。
政治主導の流れは「拒否」するぞ。
簡単に言ってしまえば「政治嫌い」であるが,これの<理>を立てるのは,けっこう難しい。
投票傾向の多数派は<投票に行かない>であるが,この多数派に<理>を立てるのがけっこう難しいのと,同様である。
そして佐々木昌雄は,政治家批判を小論の中で簡単にやってしまおうとして,しくじっているというわけである。
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