Up 二風谷 作成: 2016-10-17
更新: 2016-10-17


      鳩沢佐美夫 (1970). pp.187,188.
    ‥‥ この町内のとある地区がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。
    なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
    昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
    最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
    が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
    なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。
     ‥‥‥。
    そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
    「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。
    つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。
    何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
    「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
    そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。 だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
    しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。 今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。 「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
    ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。

      二風谷部落誌編纂委員会 (1983), pp.233-239
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40 [1965] 年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。まず、貝沢勝男が長野浅次郎の土地の一部と自分の水田を交換して現在地を手に入れ、当時は一面の湿地帯であったこのあたりに土盛りをして、今資料館前信号機のあるあたりに雑貨店を開業した。
     その次に貝沢保が現在軽食喫茶「花梨」の所に「ユーカラ食堂」を開店した。そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。昭和43 [1968] 年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46 [1971] 年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。観光客の増加に伴い昭和48年に二風谷観光センター(静内資本)、昭和49 [1974] 年に民宿「チセ」(貝沢薫) が開業したが、現在は観光センターは休業している。
     昭和45 [1970] 年から始まった8月20日のチプサンケ祭りの夜は、毎年この商店街前の広場で懸賞付盆踊り仮装大会も開くようになり、昭和53年には、町の一部補助と各戸の負担金によって商店街前の広場も舗装された。
     ‥‥‥
     二風谷での木彫熊生産は、昭和37 [1962] 年旧生活館に旭川から千里敏美を講師によんで希望者に受講したのが始まりだが、昭和46 [1971] 年には新しい生活館 (現在のもの) ができたため、古い生活館は、第2共同作業所として転用され、ここで二風谷民芸が生産されはじめた。この共同作業所 (昭和50 [1975] 年焼失後、現在地に今の大型共同作業所が建設された) の山手側に、二風谷アイヌ文化資料館が着工、昭和43 [1968] 年には金田一京助歌碑も建設されているところから、国道から資料館に向かう舗装道路入口両側にも民芸品店や観賞石販売店が軒を連ねるようになった。
     ‥‥‥
     アイヌは日用品のほとんどを木や木の皮からつくり、木製用品には木彫、衣装には刺しゅうをほどこす習慣だった。明治になって資本主義経済が北海道にも本格的に流れ込み始めると、明治26年(1893年) 貝沢ウエサナシ (貝沢正・与一・辰男・青木トキ兄妹の祖父、貝沢みな子・定雄・隆司姉弟の祖父、貝沢耕一の曽祖父、霜沢百美子の外曽祖父)、貝沢ウトレントク (貝沢勉・薫・美枝兄妹の祖父) がクルミやカツラ材でアイヌ文様を彫り込んだ盆や茶托を作り札幌で販売しているが、これが二風谷民芸品の始まりといっていい。ウトレントクは大正3年(1914年)、ウエサナシは昭和14年(1939年) に亡くなったため,その後は貝沢菊治郎がパイプの製作・販売をするくらいで、自分たちの伝来の技術を生かして金に換えようと考える者はいなかった。
     その点に着目したのが萱野茂である。昭和20年代には、全国の小学校生徒にアイヌの生活や踊りを見せる巡業に村人を引率参加して、北海道以外の人々の生活や観光地を垣間みて歩きアイヌ民具が高く売れることを知って、昭和28年頃から自らカツラやクルミで茶托やお盆の製作に着手し、その後の二風谷アイヌ民芸、アイヌ観光の先鞭をつけた。
     ‥‥‥
     このように幕末から明治時代にかけて、すでに婦女子の仕事として現金収入の中にアットゥシ織は大きな位置を占めていた。
     明治28年生まれの貝沢へかすぬなどもシナ皮をとってきでは織り、カロップ (火打ち道具などを入れた小型の袋) に加工しては売っていた。
     専業に織って販売網を広げたのは、貝沢はぎ、貝沢みさをで、昭和20年代末からは旭川市の民芸社が大量の買いつけをするようになってきた。
     やがて昭和30年代後半から民芸品ブームが起こり、造りさえすれば何でも売れる時代が来た。これといった現金収入がなかった村では今まで女の仕事だったシナ皮取りが男の仕事になり、糸をつむぐもの、織る者と二風谷を中心にアットゥシ織が大量生産され、婦女子は夜も寝ないで働いた。二風谷の暮らしがよくなった基礎は、アッ卜ゥシと婦女子の力によるといっても過言ではない。
     原料になるシナ皮の木を近辺でとりつくすと馬車や車で遠くまでシナ皮はぎに出かけることになった。シナ皮をはぐ期間は夏の間のわずかの期間でしかないが、木の皮が全部むかれると木が枯れてしまう。昔はどこの山でも自由にとれたが、木の皮は一部しかはがなかったので、木が枯れることはなかった。しかし、現金収入の道に血まなこになる時代になると昔の信仰──はいだ木の着物に帯をしめ供物をささげて感謝する風習──は忘れられ、木の身ぐるみをすべてはいでしまったので、国有林には白く皮がはがれたシナの木が目立ちはじめ盗伐問題が起きて来た。振内、厚賀、鵡川の各営林署から平取町役場に抗議がくるようになった。二風谷を中心とした人々の生活の問題でもあり、町としても放置できず対策がすすめられた。
     昭和44 [1969] 年10月「アツシ織生産組合」が設立され、組合員は他人の山でシナ皮を取らないこと,皆伐の山を世話してもらい共同で原料のシナ皮を確保することを申し合わせた。
     賛同者は94人で、設立総会で組合長二谷貢、副組合長貝沢ハギ、貝沢しづ、庶務会計黒田浪子を選んだ。損害を与えた山の木の代金として、12万5千円の特志寄附を集めたら、合計23万5千円が集まり、木代金を払った残りを組合の運用資金とした。
     町役場と連絡を取りながら皆伐予定地の山で、木代金を払って共同採取をするようになった。以来盗伐はなくなったが、しかしアツシ原反の売れゆきは落ちこんでしまい、各家庭から聞こえたハタ織の音は消えてしまった。
     今は、国道沿いの民芸品店の店先で実演販売されていたり、年輩の女性の冬期作業で織られた製品が店先で花びん敷などとして切り売りされている。



    引用文献
    • 鳩沢佐美夫 (1970) :「対談・アイヌ」,『日高文芸』, 第6号, 1970.
        『沙流川──鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995. pp.153-215
    • 二風谷部落誌編纂委員会 (1983) :『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.