Up 参考 : 砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』より 作成: 2016-12-29
更新: 2016-12-29


     砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
     
    pp.16,17
     ある日、「コタンチラアザボが山で死んだ」という知らせが入りました。 皆で行ってみると、アザボは小屋とともに焼けて骨ばかりになっていたそうです。 名寄の人は、「アザボは酒を飲んで寝込み、火の不始末で焼け死んだ」と言ったのですが、骨ばかりになっていて調べようもなく、土に埋めて帰ってきました。
     それから一年ほどして、親せきの人が二人も三人も続いて死にました。 どの人が亡くなる時も、必ず布の焼けるにおい、油のような臭いにおいがしました。 家の者が、「何が焼けているのか」と探し回っているうちに息が切れるのです。
     つぎつぎと人が死に、ものの焼けるにおいはするが、焼けているものは何もなく、「不思議だ。ただ事でない。ヌプルクル (占い者) に聞いてみよう」ということになり、長老格のランケトツクエカシが、旭川の近くの当麻に住んでいたヌプルフチ (占い婆さん) のところへ行きました。
     ‥‥‥
     エカシが帰ってきて言うには、ヌプルフチは、「コタンチラアザボは、テンやムジナをたくさん捕り、その皮に目をつけた名寄の和人三人に殺きれた。酒を飲まきれ、眠ったところを刺し殺され、キズを隠すために焼かれた。 昔から "死人の怒りはさかさま" と言われているように和人への怒りが親せきにかかって人が死ぬ。 早く弔ってあげなきい」と泣きながら言ったそうです。
     人が死ぬ時に、布が焼けるような、油のような臭いにおいがするのは、腹のところは焼けないので、腹を裂いて、油をひたしたボロきれを詰めて焼いたからだそうです。 アザボの霊が来るとにおうとのことでした。
     コタンチラアザボの弔いは、エカシやフチが大急ぎで、食べ物や酒、着物を集め、イナウ (ご幣) を作り、夜、家の外に火をたいて行いました。 火をたくのは、火の神のアベウチカムイを通して、ささげ物や祈りを死人へ届けてもらうためです。
     エカシたちは、つぎのようにアザボに祈りました。 「シサム(和人) に殺された、という知らせがあった。どうか、エカシの行った道、フチの行った道を、迷わずにあの世へ行き、後の人の行く道を照らしてくれ。われわれウタリ (同胞) を絶対にうらまないでくれ」
     この後、しばらくは人が死ぬこともありませんでした。 ほんとうに不思議な出来事でした。

    pp.46,47
     祖父のモノクテエカシの二男イタキシロマアザボが、まだ子供のころのことです。 川原で遊んでいると大きなタンネアパパ (へビ) が出てきて、アザボをしつこく追い、ももに食い付き、なかなか離しません。
     やっと離して傷の手当てをしたのですが、悪くなるばかりで骨まで腐り、いまにも死にそうになりました。 ヌプクル (占い者) に聞くと「イタキシロマアザボにかみついたへビは、去年、村の若者たちが半殺しにして川に流したへビの神だ。あの世に帰れず、モノクテエカシの力であの世に送ってもらおうとエカシの子供にかみついたのだ」と言うのです。
     実は、前の年に大水害があり、山津波が起きて、川原に大小さまざまのへビがたくさん集まっていました。 そのへビを村の若者たちが、つぎつぎとたたき殺しては、川の中にほうり込んでいました。 そこへモノクテエカシが通りかかって、「ああ、なんということをしているのだ。そんなことをするとパチがあたるぞ」と若者たちをたしなめたのです。
     へビの神が、若者たちにかみつかず、若者をたしなめたエカシの子供にかみついたのは、エカシを神に祈る力のある人、その祈りに神が耳を傾ける人と見込んだからでした。
     ヌプルクルによると、へビの神は「イナウ(ご幣) をたくさん作ってあの世に送ってくれたら、この子の傷を治し、一生守ってやる」と約束したそうです。
     エカシがへビの神の言う通りにイナウをたくさん作って神に祈ると、アザボの傷は治り、大きくなって、足は少し短くなりましたが、山猟も不自由なく出来る体になりました。

    pp.170-172.
     大洪水のあと、私は、なかなか疲れがとれず、寒くて寒くて、いつもぶるぶる震えていました。 江部乙の医者にかかったのですが、少しもよくならないので、新十津川の病院に通うことにして、その途中で、滝川にいた神をおがむ人のところへ寄りました。
     神をおがむ人は「ものすごくぬれた女の人が見える。夫の身内に川で死んだ人はいないか。この人を弔わなくては病気は治らない」と言うのです。 「何十年も前に死んだ人だが、信心深い嫁が来たので取りついたのだ」とも言いました。 自分でも「そんなことがあるか」と信じられなかったうえ、夫の身内だと言うので言い出しにくく、何も言わないでいるうちに七月になって、赤ん坊のキミエが肺炎にかかって死にました。
     私は、キミエが死ぬ少し前、この耳で「トイケットィォ (死んだ人に土かけろ)」と鳴くハトの声を聞きました。 伏古コタンに伝わる伝説どおりのことが、私の身にも起きたのです。
     やはり、神をおがむ人の言ったとおり、夫の身内に川で死んだ女の人がいるのか、と、夫の母に聞くと「ほんとうか。実は、私の母が川で死んでいる。死体が見つからないまま何十年も弔いをしていない」と言いました。
     しゅうとめの母は四十年ほど前、雨竜ブトで乗っていた丸木舟がひっくり返り、死んだそうです。 この時、しゅうとめの母は女の子をおぶり、おなかも大きかったそうです。
     アイヌ語でブトと言うのは、川と川がぶつかっているところという意味なのです。 雨竜ブトは、雨竜川が石狩川に流れ込んでいるところで、滝のようになって流れてきた急流の雨竜川が、太くゆっくりと流れている石狩川とぶつかっているので、流れが荒く、とても危険な場所なのです。
     昔は、道らしい道もなく、山にはクマが歩き回っていたので、アイヌは男も女も、みな丸木舟で行き来していました。 川が道路のようなものでしたから、川で死ぬ人はたくさんいた、と思います。
     親せきが集まって話し合いをした結果、「弔いをしたほうがよい」と決まり、早速、部落中の人に集まってもらってイアレ (祖先供養)をすることにしました。
     イアレは、夜、家の外に小さい火を三つたき、その前に、酒やウパユリの団子、干したキトピロ (キョウジャニンニク)、オモチ、魚や肉などのごちそうを供え、火のまわりを囲んで座って神に祈るのです。
     エカシたちは、火の神に頼んで、酒やごちそうを神の国に届けてもらったうえで、「川で死んだのに弔いもせずにいた。ゆるしてくれ。これからは、われわれ子孫に悪くしないでくれ」と祈ってくれました。
     不思議なことに、私の体は翌日からウソのようによくなりました。 もっと早くイアレをしていたら,私の赤ん坊も死ななくてすんだ、と思い、泣きました。

    pp.199,200.
     ある日、夫のいとこが訪ねてきました。ちょうど夫がムジナを捕ったすぐあとだったので,酒を飲みながら自慢話でもしたのでしょう。 急に、いとこが怒り出し、顔色を変えて還ってしまいました。 このすぐあと,夫と息子は、そろって山で大ケガをし、死にかけました。 そのうえ、ずっと続いていた猟運も、まるでなくなってしまったのです。 あんなに、ムジナや木ネズミが捕れていたのに。 ほんとうにウサギ一匹捕れないのです。
     息子はトドマツの枝を背負ったままガケからまっきかきまに落ちました。 夫は、木の枝に乗っていた雪氷が落ち、手に当たって持っていたノコを飛ばされました。 もし、頭の上に落ちていたら,大ケガをするか死んでいたでしょう。
     雪氷に打たれたすぐあと、夫は、マサカリで木の枝を切っていて、自分で自分の足の甲を骨が出るほど切りました。ほんとうにするはずのないケガでした。夫は「どう考えてもただ事でない」と神に祈っていました。
     夏になって、旭川に戻ってからわかったのですが、この時、夫のいとこが、夫に猟運のあるのをこばん(ねたむ)でイパッカラ(呪い)したのだそうです。 いとこが酒を飲みながら、私の親せきに「どうだい。あのあと猟があったかい」と笑いながら言ったので、わかりました。

    pp.212,213.
     八月のある日のこと、夫が石運ぴの仕事に出ようと身支度をしていると、私の母のムイサシマットが、死人のように真っ青になり、「きょう仕事に行くと悪いことが起きる。どうか行かないでくれ」と泣きながら言いました。 夫は母の言うことを聞き、仕事に出るのをやめましたが、もし、行っていたら死んでいた、と思います。 この日、夫の乗るはずだった舟がひっくり返り、杉村キナラブックさんの夫のコキサンクルさんがおぼれて死んだのです。
    ‥‥‥
     この時、母はトゥス (予言) をして夫の命を助けましたが、それまでも竜神さんの霊力で病気の人や難産の人を何人も助けていました。 母のおかげで助かった人がたくさんいるのに、部落の人は母を「パウチコロベ (化け物)」と悪く言っていました。
     母は「こんなにいやがられては竜神さんに悪い」と、夫の命を助けたあと、竜神さんを天にかえし、二度とトゥスはしませんでした。 竜神さんをかえすために、母はずいぶん金を使ったようです。

    pp,232-234.
     昭和十四年の夏のことです。 清の目が突然、血の玉のように真っ赤になり、目も頭も痛んで、そのうち目が見えなくなりました。 登別の病院にも室蘭の病院にも連れて行ったのですが、少しもよくならず、清は朝から晩まで、目にほうたいをし、うなりながら寝ていました。
     あまり治らないので、森さんの奥さんのタケさんが心配して、清を幌別にいた神をおがむ人のところへ連れて行ってくれました。 神をおがむ人は「半殺しにされ、池の中に捨てられたへビが供養してほしくてついている。 真夜中の十二時に、温泉の裏山にある地蔵さんに菓子を十五種類、サンダワラに載せて供えるとよい」と言ったそうです。
     半殺しにきれたへビというのは、清がクマを彫るために山から切ってきた木のウロに住んでいた大きなへビでした。 清は、傷をつけないようにそっと逃がしたのですが、その後で、またたチセ (家) に入ってきたところを掃除をする男の人が叩き殺して捨てたのです。
     神をおがむ人から「供養しなさい」と言われた時、夫は身内が死んで旭川に行っていました。 夫はいなかったのですが、少しでも早いほうがよい、と、私たちはその日の夜、お参りをしました。
     大急ぎで集めた十五種類の菓子を供え、ロウソクと線香をあかして、私がアイヌ語で「私は女の身です。 昔から、女は神に祈られぬものと言われていますが、うやまいながら祈りますので、私の祈りを聞いてください。 どうか息子の目を治し、丈夫に育てて」と泣きながら、アベウチカムイ (火の神) にお願いしました。
     ほんとうに信じられないような話ですが、その晩から清はうなりもしないでよく眠り、翌朝には自の赤みもとれ、痛みもすっかりなくなったのです。 何カ月も病院に通ったのに少しもよくならなかった目が、一晩、お参りしただけで治ったのでした。
     神をおがむ人の話では、へビは竜神さんの使いで、清を困らせるためではなく、守るために目を悪くしたのだそうです。 そう言われれば、清は兵隊検査の年だったのですが、目が見えないので不合格になり、兵隊に行かずにすんだのでした。
     旭川に行っていた夫も清の目を心配し、イアレ (祖先供養) もすまさずに帰ってきました。 駅に迎えに行くと「どうした、清」と聞くので「お地蔵さんに参ったら、自の痛みも赤みもなくなった」と言うと、夫は涙を流して喜ぴました。 家の近くまで来ると、清が鉄棒をしている姿が見え、夫は「アレ、清ではないか」と喜び、神に感謝の祈りをしていました。