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久保寺逸彦 (1956), pp.113-115
アイヌの信仰に依れば、人が死ねば、その霊 ramachihi は、肉体を離脱して、この世 ainu-moshir を去って他界に辿り行って、そこで、先祖 shinrit (先に死んで他界で暮らす人々を汎称する) だちと一緒に暮らすという。
アイヌの考える他界は、現世の人の住む世界 ainu-moshir の地下にあるので、pokna-moshir (下方の国、死者の国) と呼ばれている。‥‥
更にその下に Teine pokna-moshir (濡れてじめじめしている国、陰湿の国) と呼ぶ世界があるという。
Teine pokna-moshir は暗黒陰湿な世界で、仏教の所謂地獄 Naraka に当り、善神との戦に敗れた魔神の霊や、悪業によって罰せられた人間が呪われていく世界であり、人間に危害を加えた悪熊の霊 (熊は山の神として、熊祭りによって、その霊は、高山にある神国に帰って行く) なども呪われて、追いやられていくところである。
こゝに落とされたものは、神でも、人間でも、永遠にこゝに止まり、他の世界へ復活再生出来ないものと考えられていることは、アイヌ神謡 kamui-yukar、神々の起原譚 kamui-upashkuma などにも、よく現われている。
通常、死者のいく所は、単に Pokna-moshir、Pokna shir と呼ばれ、一種の神の国 Kamui-moshir である。
Pokna-moshir は、‥‥ 上方の国 kanna-moshir 即ち人間界 ainu-moshir 同様な光明世界で、青い山脈もあれば、川も流れ、樹立も茂り、海も湛え、鳥歌い、獣走り、魚も群れ泳ぐところ ‥‥
つまり、アイヌの死者の国は、この現世そのまゝを写照したもので、死者の生活は、この世の生の連続である点に著しい特徴がある。 ‥‥
親子妻子は一家を、同じ村人は一村を形成し、又、一つの川筋のものは、一団となって生活を続けていくものと考えているのであるから、聚落毎に、酋長が存在しなければならぬことになる。 ‥‥
アイヌの死者の国には、死体から遊離した霊魂 ramachi、rai-tama-num だけが行き、そこでまた、元の骸 kaisei を得て、人間の姿に復活し、夫婦、子供、老人という様に一家揃って、現世そのまゝの様式の家屋 chise に住み、
山に、鹿や熊を狩り、川に、鮭や鱒など漁り、海では、カジキマグロや鯨、アザラシなど獲り、昆布なども採る、
山野に、野草を求め、薪もとり、畑では、ヒエやアワ、カブラなどを作る
といった生活を続けているという。
死体を埋葬する際に、生前使用した炊事道具、調度、愛好品などを副葬する意味も、老人や主婦が死んだ際、その家を焼き捨てる風習1)も、死後の生活は現世の生活の継続だということを考えずには、理解されないであろう。
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同上, p.115
下界 pokna-moshir なる死者の国と、上界 kanna-moshir なる人間界 ainu-moshir との違いは、
(1) 死者の国の生活では、現世の生活に於ける如く、悩みわずらうこともないし、苦痛を感じることもない。あるものは、永遠の生の享楽である。
(2) 現世は、一名 uwari-moshir (出産し繁殖する国土) と呼ばれて、神人ともに子を生み栄えいくところであるが、他界では、この世の連続として結婚生活が営まれでも、新に結婚が行われでも、出生、増殖というものは考えられない。
他界の人口の増加は、この世からの死者の訪れによるものであり、人口の減少は、現世への再生によるのみである。
又、現世と他界とでは反対になることが多いから、
(3) 時間の尺度が違う。
神話学でいう super-natural lapse of time in fairy-land (異郷に於ける時間の異常の経過) で、死者の国の1日は、上方世界の6日、1ヶ月は6ヶ月、1年は6年に当たるという様にも考えられている。
(4) 他界の季節も、現世のそれとは逆になる。
夏は冬、冬は夏となるなどいわれる。‥‥
(5) 他界と現世とでは、昼夜が逆になる。
他界の昼の時に送ってやらないと、道に迷い、こちらへ戻る恐れがあるから、夜になって葬式を出す地方のあるのも、この考え方の現れであろう。
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同上, pp.115,116
現世と他界とをつなぐ通路即ち死者があの世へ赴く路に、
(1) ahun-par (入る口)、
(2) ahun ru paro (入る路の口)、
(3) oman ru paro (行く路の口)、
(4) wen ru paro (悪い路の口、不吉な路の口) 、
(5) opokna ru paro (そこから下界へいく路の口)
などというものがある様に云い伝えられている。
かかる地名は、北海道各地の海岸や川岸の洞穴に付されて、多く存在する。‥‥
かかる洞穴には、幾多の伝説が伴なうであろうことは想像に難くない。
故意にか、或は知らずして道に迷った挙句にか、かかる洞穴から入って、死者の国へ赴いて、そこで自己の配偶者に会ったり、親や子にあったり、先祖にめぐり遭ったりし、また、そこへの途中、若しくは帰途で、新に死んで他界に赴く親戚、故旧、村人にあったりするという話を伝えているのである。
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同上, pp.120,121
以上の諸説話を通じて、我々がアイヌの他界観に就いて知り得る点は、
(1) 現世の人々も、決意次第で、生存中に、死者の国を訪れることが出来る。
(2) 現世の人が他界を訪れると、こちらには彼等の姿が見え、その言葉も聞えるが、彼等には、こちらの姿は見えず、声も聞えない。
即ち、凶霊若しく妖怪として扱われる。
(下界の死者が、ghost として上界を訪れ、夢の中に現われるのと同じ。)
(3) 現世の者は、他界に於いては、凶霊若しくは悪魔・妖怪として観ぜられるが故に、犬に追われ、或は魔神用の木幣 wen-inau を供えられ、汚穢の食物、食べ残り等を投げつけられたりして、放逐される。
それは、この人間界で行う悪魔祓の儀礼と同じである。
(4) 現世のものが他界に行った場合、それは ghost なるが故に、他界の人に意志を通じる唯一の方法は、他界の者 (恐らくは、女の死者) に憑依し、神懸りの状態に陥し入れ、その口を藉り託宣することである。
これは、人間界で、神々や死者が、人間に託宣するに、巫女 tusu-menoko の口を藉りるのと同一である。
(5) 現世の者が他界を訪れても、他界で食物を食べること即ち黄泉戸喫の禁を犯せば、人間界には戻ることが出来ないという考方のあること。
そして、之の禁を犯したものは、元々生者として赴いたものであるから、死者の人々の仲間には入れず、交際を絶たれ、隔離された悲惨な状態で、その生を終るまで、下界に止まらねばならぬという考方である。
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引用文献
- 久保寺逸彦 (1956) :「北海道アイヌの葬制一沙流アイヌを中心として」
- 民俗学研究, 第20巻, 1-2号, 3-4号, 1956.
- 収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.103-263
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