Up 難産死の妊婦を他界に送る法 作成: 2019-01-07
更新: 2019-01-07


    他界の論理は,とりわけ死者の処理法において明確に現れることになる。
    実際,死者は,他界の論理と整合するように処理されねばならないわけである。


    他界は,この世と同じである。
    死者は,他界でこの世と同じ生活を営む。
    但し,死者の世界であるから,<死ぬ>は無いことになる。

    <死ぬ>の逆の<生まれる>はどうか?
    これも,無いとしなければならない。
    そうでないと,わけのわからぬことになる。

    死者は,この論理と整合するように処理されねばならない
    この論理整合の要求をはっきり見ることのできる題材に,難産死の妊婦の埋葬法がある。
    実際,<難産死の妊婦の他界送り>は,「他界の論理との整合性」をぎりぎりの相で現すことになる。


    難産死の妊婦は,そのままの形では他界に送ることができない。
    他界では<生まれる>は無いから,「他界の妊婦」は存在矛盾になる。

    よって,他界へは,母と子どもの二人の形で送らねばならない。
    その術は?
    <妊婦の腹を割いて子どもを取り出す>である。

      久保寺逸彦 (1956), pp.193,194
    満岡伸一氏の「アイヌの足跡 (1932 =昭和7年版)」に依れば、胆振の白老では、
     「 死体の包を解き、会葬者を遠ざけ、鎌を以て腹部を剖き、体内の嬰児を出し、母の屍体に抱かしめ、再び包みて、之を葬る。
    此の役に当る者は部落中のフッチ (老婆) の中より大胆にして物慣れたる者を択ぶ由なり。
    此の手術を為す際、着用したる手術者の衣服は、手術後、現場に於て、鎌を以て寸々に切り裂き、其のまま之を放棄す」
    とある。
    北海道庁の「旧土人に関する調査」には、
     「 昔時は死者妊婦なるときは、小刀にて腹を割き、胎児を取出し、布に包みて母屍の側に埋めたりしが、現今は此の事なし」
    とある。
    名取武光氏も、「アイヌの土俗品解説2」の中で、この事実を記述されている (旭川近文の習俗を記述されたものだろう) 。
     ‥‥
    (動物でも、みごもったものを埋葬するには、同様な処置をしてから、土に埋める風習が広く行われている。) ‥‥
     ‥‥
    北大の児玉 [作左衛門] 博士も、「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」(「北方文化研究報告第1輯」1939年3月) p.84 (5) に於いて、胆振の八雲 (ユーラップ) 、白老、虻田の諸部落、旭川の近文、日高の平取、十勝の伏古部落に於いて、故老について、この習俗を調査された結果を報告されている。
    その大要を示すことにする。
    八雲では、施術者は墓穴に入り,鎌を以て、腹と子宮を切り、胎児を取り出し、死者の衣服の一部を切り取り、襁褓(むつき)となし、それに包んで、死者の右腕下に葬ってやったと云う。
    ( 児玉博士に、自身の施術体験談をなした老婆「アルパシ」が之を行ったのは、明治の終り頃であったという)
    白老部落では、施術者は普通女であるが、時には、夫であることもある。
    妊婦を墓穴に横たえ、施術者はその左側に坐し、右側に襤褸(ぼろ)布を置き、鎌を両手に持ち、ホホホエ (憐れな死方をしたものに対する悪魔払いの掛声) と唱えながら、妊婦の臍の上から下方に向って少しずつ切り進む。
    腹の中に手を入れて、探りながら胎児を取り出し、その後へ襤褸布をつめ込む。
    墓穴の周囲に立ち並んだ会葬者は、悪魔被いの強歩 niwen-apkash を行う。
    児玉博士に、目撃談をした熊坂シタッピレ翁がこれを見たのは、約40年前 (明治20年前後か) であったという。
    虻田コタンでも、墓穴の中へ入って施術するが、施術者の老婆は、肌脱ぎになり、周囲にキナ (茣蓙) 3枚をとりかこみ、外から見えぬ様にしたという。
    旭川近文では、腹の中で、子供が泣くといけないから、腹を切り開いて埋めるが、子供は取り出さない。
    施術者は妊婦の夫で、マキリで、縦に約1寸位臍の下を切るだけにしたり、屍体を包んだキナだけを形式的に切ることもあったと云う。
    十勝の伏古では、妊婦が死んだ時には、腹を切って胎児を取り出す真似をするだけで、実際には切らなかったが、十勝の白人 Chir-ot-to では、実際に腹を切った。
    (児玉博士の調査された年から約20 年前。)
    日高の平取では、この施術をした女は、以後出産の際には、取り上げはしなかったという。
    以上児玉博士の報告を見ても、この習俗は、殆んど、例外なく、各部落で行われた習俗であったと想われる。


    引用文献
    • 久保寺逸彦 (1956) :「北海道アイヌの葬制一沙流アイヌを中心として」
      • 民俗学研究, 第20巻, 1-2号, 3-4号, 1956.
      • 収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.103-263