Up 難産死の妊婦を他界に送る法 作成: 2019-01-07
更新: 2019-02-04


    他界の論理は,とりわけ死者の処理法において明確に現れることになる。
    実際,死者は,他界の論理と整合するように処理されねばならないわけである。


    他界は,この世と同じである。
    死者は,他界でこの世と同じ生活を営む。
    但し,死者の世界であるから,<死ぬ>は無いことになる。

    <死ぬ>の逆の<生まれる>はどうか?
    これも,無いとしなければならない。
    そうでないと,わけのわからぬことになる。

    死者は,この論理と整合するように処理されねばならない
    この論理整合の要求をはっきり見ることのできる題材に,難産死の妊婦の埋葬法がある。
    実際,<難産死の妊婦の他界送り>は,「他界の論理との整合性」をぎりぎりの相で現すことになる。


    難産死の妊婦は,そのままの形では他界に送ることができない。
    他界では<生まれる>は無いから,「他界の妊婦」は存在矛盾になる。

    よって,他界へは,母と子どもの二人の形で送らねばならない。
    その術は?
    <妊婦の腹を割いて子どもを取り出す>である。

      久保寺逸彦 (1956), pp.193,194
    満岡伸一氏の「アイヌの足跡 (1932 =昭和7年版)」に依れば、胆振の白老では、
     「 死体の包を解き、会葬者を遠ざけ、鎌を以て腹部を剖き、体内の嬰児を出し、母の屍体に抱かしめ、再び包みて、之を葬る。
    此の役に当る者は部落中のフッチ (老婆) の中より大胆にして物慣れたる者を択ぶ由なり。
    此の手術を為す際、着用したる手術者の衣服は、手術後、現場に於て、鎌を以て寸々に切り裂き、其のまま之を放棄す」
    とある。
    北海道庁の「旧土人に関する調査」には、
     「 昔時は死者妊婦なるときは、小刀にて腹を割き、胎児を取出し、布に包みて母屍の側に埋めたりしが、現今は此の事なし」
    とある。
    名取武光氏も、「アイヌの土俗品解説2」の中で、この事実を記述されている (旭川近文の習俗を記述されたものだろう) 。
     ‥‥
    (動物でも、みごもったものを埋葬するには、同様な処置をしてから、土に埋める風習が広く行われている。) ‥‥
     ‥‥
    北大の児玉 [作左衛門] 博士も、「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」(「北方文化研究報告第1輯」1939年3月) p.84 (5) に於いて、胆振の八雲 (ユーラップ) 、白老、虻田の諸部落、旭川の近文、日高の平取、十勝の伏古部落に於いて、故老について、この習俗を調査された結果を報告されている。
    その大要を示すことにする。
    八雲では、施術者は墓穴に入り,鎌を以て、腹と子宮を切り、胎児を取り出し、死者の衣服の一部を切り取り、襁褓(むつき)となし、それに包んで、死者の右腕下に葬ってやったと云う。
    ( 児玉博士に、自身の施術体験談をなした老婆「アルパシ」が之を行ったのは、明治の終り頃であったという)
    白老部落では、施術者は普通女であるが、時には、夫であることもある。
    妊婦を墓穴に横たえ、施術者はその左側に坐し、右側に襤褸(ぼろ)布を置き、鎌を両手に持ち、ホホホエ (憐れな死方をしたものに対する悪魔払いの掛声) と唱えながら、妊婦の臍の上から下方に向って少しずつ切り進む。
    腹の中に手を入れて、探りながら胎児を取り出し、その後へ襤褸布をつめ込む。
    墓穴の周囲に立ち並んだ会葬者は、悪魔被いの強歩 niwen-apkash を行う。
    児玉博士に、目撃談をした熊坂シタッピレ翁がこれを見たのは、約40年前 (明治20年前後か) であったという。
    虻田コタンでも、墓穴の中へ入って施術するが、施術者の老婆は、肌脱ぎになり、周囲にキナ (茣蓙) 3枚をとりかこみ、外から見えぬ様にしたという。
    旭川近文では、腹の中で、子供が泣くといけないから、腹を切り開いて埋めるが、子供は取り出さない。
    施術者は妊婦の夫で、マキリで、縦に約1寸位臍の下を切るだけにしたり、屍体を包んだキナだけを形式的に切ることもあったと云う。
    十勝の伏古では、妊婦が死んだ時には、腹を切って胎児を取り出す真似をするだけで、実際には切らなかったが、十勝の白人 Chir-ot-to では、実際に腹を切った。
    (児玉博士の調査された年から約20 年前。)
    日高の平取では、この施術をした女は、以後出産の際には、取り上げはしなかったという。
    以上児玉博士の報告を見ても、この習俗は、殆んど、例外なく、各部落で行われた習俗であったと想われる。

      Munro (1962), p.134 (p.197)
    When a pregnant woman died, before the grave was filled in elder or an old woman performed a rite called uko-ni-charapa (together opening out).
    The abdomen was cut with a slckle to allow the soul of the infant to escape. In the north, I am reliably informed, it was pierced with a needle.
    昔は妊娠した女性が亡くなると、埋葬のために遺体に土がかけられる前に、一人の長老か老女が〈ウコ ニ チャラパ〉(共に開いて出る) と呼ばれる儀礼的慣習が行われていたようです。
    つまり、遺体の腹部を鎌で傷つけて胎内の赤ん坊の魂をそこから出してやっていたのです。
    これは確かな筋から聞いたことですが、北部の地域ではこのような場合には遺体の腹部に針を刺して赤ん坊の魂を出してやっていたということです。


    引用文献
    • 久保寺逸彦 (1956) :「北海道アイヌの葬制一沙流アイヌを中心として」
      • 民俗学研究, 第20巻, 1-2号, 3-4号, 1956, pp.156-203 (54-101)
      • 収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.103-263
    • Munro, Neil Gordon (1962) : B.Z.Seligman [編] : Ainu Creed And Cult, 1962
      • Columbia University Press /NewYork
      • 小松哲郎[訳]『アイヌの信仰とその儀式』. 国書刊行会. 2002