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高倉新一郎 (1974), p.218-222
死体は入口から向かって左手の下座 (平生家長夫婦が坐っている場所) にござを敷き、頭を東に向けて横たえ着物をさかさまにかけ、
近隣や縁者に知らせの使いを立てる。
死者が男の場合は男、女の場合は女を普通とし、時として男女二人づれにするが、一人の時は魚の骨またはイケマを懐に入れぼろきれに火をつけてくすぶらせて持つ。
使者は非常を知らせる叫び声をあげると、これを知った近隣・縁者は喪家にかけつける。
喪家の前に集まり、長老を先に立てて家の中に案内され、長老は炉の火の神に祈りをささげ、他は死人の枕辺に坐って死体をなでて叫び声をあげた後に遺族に悔みをのベる。
死体は近親の女 (同じウプソロのもの) が集まって、身体を清めた後、硬直しないうちに死装束にかえる。
着物は晴れ着であるが、脚絆・手甲・帯・はきものなどはあらかじめ用意されている場合が多く、独特なものであった。
一人が少しずつ大勢でつけるのだが、つけ方は平素と同じではない。
顔は白布でおおい、黒い紐でしばる。
宝壇はござでおおう。
一方戸外では煮炊きが始まる。
枕だんご・盛り飯などが他の供物と共に死人の枕辺に供えられる。
飯は高盛りにし、箸を斜めに立てる。
他村に嫁入っている娘が死んだという知らせを聞くとその家では直ちにだんごをつくり二つに切り、十字形にして膳にのせ、火の神に捧げて後、夕方に捨てる。
一方墓標にする木をとりに若者を山に派遣する。
必ず二人以上で行き、選んだ木は途中で変えてはいけない。
切って持ち帰ってその日のうちに作り終える。
出棺前に会食をする。
煮炊きはいっさい戸外で別火をもってする。
食物として大量のものが必要なので会葬者が、粟・稗・澱粉等の畑物を持って集まる。
全部生のまま持って行き、煮炊きしたものは持って行かない。
炊事ができると一同手を洗って会食をする。
死人に供えたものは全部炉辺の入れ物にあけ、会食者の食べ残しもそうする。
そしてこれを肩ごしに戸外に捨てる。
また出棺前に墓地に携えて行くための沢水を汲みに行く。
左手に杖をつき泣きながら行く。
汲んできた水は仏の側におく。
長老が告別の言葉をのベて後に納棺する。
棺は木の箱ではなく、死体の敷いていたござの四方を折り畳んで死体を包み、木串で止め、白黒の特別製の縄でかがる。
この時近親者は髪を少し切って入れる。
また死人が神の国の生活に不自由のないように持たせてやる身回り品・日用品を荷作りする。
墓穴掘りは一人では行かない。
必ず女が一人加わる。
川を越えた場所は選ばない。
墓穴は死体の大きさをあらかじめ測っておき、それに合わせて掘る。
材木を集めて火をたいて作業をする。
掘り終わると墓穴の底ならびに四壁をござで囲い、墓穴をおおう割り板をつくる。
こうして用意が整うと墓掘りの足跡を消し、イケマの細末をまく。
棺は普通の入口からは出さなかった。
壁の一部を破って新たな入口を仮に作って出した。
葬列は、まず墓標の打ち込む方を先にしてかわるがわる持つ。
次は容器に入れた水を運ぶ女、片手に杖をついている。
次は副葬品の荷を運ぶ人、これは主として喪主で、荷物は逆に負う。
次に死体で、足を先に、しばった縄に丸太を通し二人ではこび、頭を後に運び出す。
そして最後に見送り人が従う。
近い身内のものは木綿の刺繍した晴れ着を着る。
本州で紋付きの見送り人が多い程喜ぶように、これを着た人が多いのが喜ばれる。
墓地に着くと、回転して死体を東枕にし、縄を切って死体を穴の中に落とす。
そして会葬者一同が墓穴の周囲に掘り上げてある土を手ですくって少しずつ振りかける。
そして副葬品をこわして墓穴に入れ、用意の割り板でおおい、簀の子をかけ、土をかけて埋める。
イケマおよびタクサで後を清める。
終わると墓標を立てる。
これは穴を掘ったりせず、一気に打ち込む。
そして土を椀に盛って正面におき、たむけの水を墓標にかけ、からになった容器は墓標で底をぬく。
その後、墓標を上から下へとなでおろして別れを惜しみ、最後に椀を墓標に打ちつけてこわす。
こうして埋葬を終わると後を振り向かず、寄り道をせず、直ちに家に帰る。
泣いてもいけない。
時によると着物を裏がえしに着、後ずさりをしながら帯で足跡を消しながら帰る。
死体を離れた悪霊を寄せつけぬためと思われる。
帰ると戸外の樽に用意してある水を柄杓でかけてもらい、手や顔を洗い、着物を着かえ、前髪を少し切ってもらって家に入る。
脱いだ着物は天日に干す。
寡夫・寡婦は着物を裏返しに着、髪を切って涙頭巾をかぶり下座に坐る。
寡婦はその上頭から着物をかぶる。
そして会葬者一同は会食し、その夜は遺族を守って通夜をする。
その時、会葬者が持ち寄ったもので料理し、これを一同に分けた。
死んだ人が老婆で寡婦である場合は、神の国に行って不自由をさせないためだと称し、持たせてやるために家を焼いた。‥‥
そうでない場合でも、家の中の配置をまったく左右反対にした。
寡夫は一年、寡婦は三年喪に服し、男は狩りに、女は社会的な行事に携わることができず、ことに女は涙頭巾といって着物の 袖を頭にかぶり、日にあたることを慎み、一人で便所に行くことも慎まねばならなかったという。
喪が明けると祓いをし、まったく平常の生活に戻り男女とも再婚してかまわないが、寡婦は前夫の名を口にすることはかたく禁じられていた。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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