Up | 酷使 | 作成: 2016-12-01 更新: 2016-12-03 |
線引きができるわけではないが,過労で倒れた者に対し殴る蹴るをして仕事に引き戻すとか,いわゆる「人間扱いをしない」くらいが,「虐待」である。 過労の者をさらに働かせるくらいは,「酷使」にしておく。 酷使は,働かされる側の自発が必要になる。 たとえば,残業は,ほんとうに仕事をしてくれてこそ残業になるわけである。 仕事をしているふりだと,残業にならない。 酷使は,働かせる者と働かされる者の,一種協同になるわけである。 そこで,「アイヌ酷使」を想像することは,けっこう難しい。 例えば「クナシリ・メナシ」は,「酷使」の事例ではなく,「虐待」の事例になる。 先ず,「酷使」におけるアイヌの「身分」を,つぎの二つに分ける必要がある: その「限界」は,「次回も来てくれる程度の酷使」である。 「徴用」は,限界がなくなる。 強制的動員だから,次回を考える必要がない。 「アイヌ酷使」は,「雇用」と「徴用」の間に求めることになる。 即ち,「半強制的動員」である。 この「半強制的動員」は,どこがこれの場面になるか。 「場所請負人が経営する漁場」しかない。 そこで,つぎの絵図になる:
嫌がるアイヌを連行してくる」 さて,この絵図は,正しい絵か。 これは,ペンディングということになる。 文献が無いからである。 上の絵図は,あくまでも,ロジックを推して導いたものである。 また,「漁場」は,「アイヌ酷使」の絵図をつくりにくい場面である(註)。 仕事は,魚と天候次第である。 仕事は,日が昇ってから沈むまでの間である。 そして,働き手は,使い捨てできない。充足がたいへんになるからである。雇用者は働き手の体力維持を配慮せねばならない。 以上の難関はあっても,ともかく「アイヌ酷使」の絵図が描けたとしよう。 つぎの問題は,この絵図をさらに「アイヌ差別」の絵図にできるかということである。 「アイヌ酷使」では,つぎが区別される: 「アイヌ差別」は,前者の場合である。 そして,この絵図は,成立しない。 命題「アイヌでなかったら,酷使しない」は真でなく,「人手は,だれでもよかった」が真だからである。 なぜ,こう言えるか。 これが,「商い」だからである。 商品経済は,個人が「労働力」として個性を失う系である。
|