Up | いじめ (排斥的) | 作成: 2016-12-05 更新: 2016-12-05 |
「いじめ」の議論がいつまでたっても愚劣なのには,この二つを一緒くたにしていることにも一因がある。 「いじめ(排斥的)」は,対象への生理的嫌悪から始まる場合である。 ゴキブリを見て,「ギャッ」となる。 ゴキブリが部屋の隅に入って見えなくなれば,一件落着である。 しかし,ゴキブリが逃げ場が見つからなくて,あちこち動き回ったらどうだろう。 しかも,ひどく狭い部屋だったら。 これは,ゴキブリとの棲み分けが成立しない場合である。 生理的嫌悪の対象との棲み分けが成立しないとき,ひとはこの対象の駆除に進む。 ゴキブリだったら,殺してしまう。 では,相手が人だったら? 「いじめ(排斥的)」を現すことになる。 牢屋とか教室は,「いじめ(排斥的)」の起こる場である。 生理的嫌悪の対象との棲み分けが成立しない場だからである。 人の「成長」には,「理性による生理的嫌悪の抑制を身につける」が含まれる。 翻って,子どもは,生理的嫌悪を抑制しない存在である。 ──「生理的嫌悪を抑制しない」は,「子ども」の含意である。 <生理的嫌悪を抑制しない子ども>を,<生理的嫌悪の対象と棲み分けできない教室>に詰め込む。 この結果は,「いじめ(排斥的)」である。 そして,排斥は成らないので,このいじめは切れ目無く続かねばならない。 要点は,「ひとは<きたない・気持ち悪い>に弱い,子どもは特に弱い」である。 福島原発事故は,生活の場を汚染されてしまった者を,移動させる。 子どもは,転校となる。 このとき「放射能が おとなは,これを信じられないことにする。 いじめをした子どものことを,「酷い奴ら」と定める。 しかし,低学年だと,子どもはマジで「放射能が 論点の「マジ」は,「迷信」と重なる。 ハンセン氏病は,むかし「 ひとは,彼らを忌避した。 「伝染る病」「業病」と思われていたのである。 いまは,それが「迷信」であることを知っている。 一方,「迷信でやったこと」の思いに至らない者は,隔離し忌避した昔の人たちをつぎのように思うことになる:
その彼らをいじめるなんて酷い奴らだ」 つぎも,「マジ/迷信」タイプの「いじめ」の話ということになる: p.52
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