Up 近親差別── "アイヌ" によるアイヌ差別 : 要旨 作成: 2016-10-23
更新: 2016-12-06


    学のない親が,子に学をつける。
    その子は,親が人前に出るのを恥じるようになる。
    つぎのように思うからである:
      ひとが自分の親を見たら,蔑む。
       そして,「この者の子」として自分が見られる。

    アイヌが終焉して,アイヌの系統の者の中から "アイヌ" が起こる。
    その "アイヌ" は,アイヌの形を生活様式や体の入れ墨で遺している者を,身近にもつ。
    "アイヌ" は,つぎを命題にする:
      「"シャモ" は,彼らを蔑む」
      「"シャモ" は,自分と彼らをいっしょくたにする」
    自分が "シャモ" から彼らといっしょくたにされることは,自分が "シャモ" から蔑まれる存在でいることである。
    そこで "アイヌ" は,「自分は彼らではない!」を行動する者になる。

    これは,「"アイヌ" によるアイヌ差別」である。
    これは,「近親差別」の一般構造をなぞるものである。


    「"アイヌ" によるアイヌ差別」は,アイヌの形を生活様式や体の入れ墨で遺している者がいなくなった後も,形を変えて続く。
    即ち,<アイヌの歴史>が,<アイヌの形を生活様式や体の入れ墨で遺している者>に取って代わる。,

    "アイヌ" は,つぎを命題にする:
      「"シャモ" は,<アイヌの歴史>の中のアイヌを蔑む」

    "アイヌ" にとって,<アイヌの歴史>の中のアイヌは,恥ずかしいものになる。
    ひとは,恥ずかしいものを隠蔽する。
    "アイヌ" は,アイヌを恥じて,アイヌを隠蔽しようとする。

    "アイヌ" がアイヌを隠蔽する方法は,アイヌの捏造である。
    自分にとって恥ずかしくない形に,さらには自分が誇れる形に,アイヌを捏造する。
    「事実捏造・歴史改竄」というわけである。

    併せて,アイヌの実像の記述を,「差別的!」のことばで,抹殺しようとする。
    「言葉狩り・言論封じ」というわけである。


    以上の心の動きは,「合理化」の機序として,無意識で進む。
    これが "アイヌ"イデオロギーである。

    "アイヌ"イデオロギーは,自分のアイヌ捏造を捏造とは意識しない。
    つくったアイヌの虚像を,虚像とは意識しない。
    "アイヌ"イデオロギーにとって,その虚像こそアイヌの実像である。

    "アイヌ"イデオロギーにとっては,アイヌの実像を論じ "アイヌ" がつくるアイヌの虚像を壊す者こそが,アイヌの虚像をつくる者である。
    その者は,アイヌを貶める者である。
    その者は,アイヌ差別者である。
    したがって,やっつけねばならない者である。
    こうして,"アイヌ"イデオロギーは,自分のアイヌ像を損なう論を,「アイヌ差別」だと言って攻撃する。


    ひとは,何が「アイヌ差別」になり或いはならないかが,わからない。
    "アイヌ"イデオロギーは,ひとにとって,「逆鱗に触れてしまわないよう,これと係わらないのが最良」という存在になる。
    こうして,"アイヌ" は,孤立した存在になる。
    しかしこの孤立と引き換えに,「アイヌ」が自分の専有物になる。
    そしてこれによってゲットできるのが,「アイヌ利権」というわけである。

    そしてこれに,「アイヌ学者」が絡んでくる。
    「アイヌ学者」は,「アイヌ」を論じることが商売である。
    ところで「アイヌ」は, "アイヌ"イデオロギーの持ち物になっている。
    よって,「アイヌ学者」とは, "アイヌ"イデオロギーが持ち物にしている「アイヌ」を論じることを商売にする者のことである。
    この「アイヌ学者」は,"アイヌ"イデオロギーに追従する者になる。