Up 「指導者」 作成: 2017-02-12
更新: 2017-02-12


      喜多章明「旧土人保護事業に就て」, 北海道社会事業, 第50号, 1936.
        「旧土人保護事業概説」, 北海道社会事業, 第51号, 1936.
     『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.59-105.
    p.75
    ‥‥‥既往久しく漁藻の裡に育ち、何等農耕に経験なき同族は土地を管理利用する能力なきは勿論、折角給与されたる土地も動もすれば酒食の代償として喪失し、己は亦元の木阿弥(もくあみ)となって放浪の生活を送ると言ふ状態‥‥‥
    p.91
    近来はアイヌ人も文化が進み、知識が向上するに従って時勢に目覚めたものは、いろいろな職業を求めて他府県、他市町村に転出する。
    転出したものは和人となり、転出する技倆もなく、古潭に停ってコツコツ旧慣を墨守するものはアイヌ人として調査され、アイヌ人として遇せられ、アイヌ人として差別されてゐると言ふのが、現在の実相である。
    尤も古潭にあるもの総べてが生活技倆に乏しいとは断言出来ないが概してその傾向がある。
    pp.102-103
     一口に土人と言ってもその生活程度は千差万別である。
    上は一二十万の有資産家より下はカード階級迄あって、貧富の差、力の強弱は一般和人の社会、否世界何れの民族と同様である。
    ただ概括的に言へば、旧土人の生活状態は現実主義であると言ひ得るであろう。
    即ちその祖先が河海に漁り、山野に猟し、専ら天産物にのみ倚食して来た習慣から、強ひて自家永安の計を樹てない傾向がある。
    又物事に対する進歩改善に乏しい。
    之はアイヌ族の今日ある所以
    と信ずる。
    然し近来は四国環境の影響に依り、並に当局の保護指導に依って漸次かうした風習も改りつつある。
    pp.103, 104
    いかに保護制度が確立され、保護施設が完備されても、之が対象たる同族が他力本願に流れ、自ら奮って起つべき気力と熱意とを欠いたならば、そは到底有終の局を結ぶを得まい。
    故に此の際旧土人族が、断然一擲すべきはアイヌ人たる人種的意識である。
    即ち「吾はアイヌである、どうせいかに努力しても社会から相手にして呉れないものである。のらくらしてゐても保護さるべきものである」と言ったやうな卑屈退嬰の旧套より(せん)脱することである。
    然らざればアイヌ族は永久に救はれない。
    今日土人族が社会的に振はざる所以のものは、物質的貧困にあらずして寧ろ精神的貧困に因由する処が最も多い。
    宜しく過去多年に亘って潜在し来れる人種的意識所謂アイヌ根性を一洗し、「吾は日本人なり、吾は一般人同様完全なる社会人なり」と言ふ一大自覚の下に社会生活の第一歩を踏み出すべきである。
    この自覚の有無こそは、彼等の成敗浮沈を決する分岐点であり、その一生を幸不幸ならしむる絆である。

      喜多章明「旭明社五十年史 : えぞ民族社団」, 十勝旭明社, 1967.
     『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.106-173.
    pp.126,127
    十勝国は道内でも道東に偏し、往時唯一の海路交通にも遠ざかり、陸の孤島と言った環境におかれていたため、経済生活の面に於ては往時の習慣が脱け切れず、飲酒、浪費、怠惰、貯蓄心の皆無等々、一般人に比較し著しいへだたりがあった。‥‥‥
    土人の人達が何となく社会より蔑視される所以のものは、人種自体が低劣であるという訳でなく、日常の経済的基盤が薄弱であり、而も信用貸借の場合に於て借りたものは貰ったものと考える往時の悪習の応報であり、つまるところ、人的にも、物的にも、信用がないと言うことに因由するものである。
    p.127
    旭明社が生れた昭和の初頭頃になると、同族の職業も、各種の職種に分派しつつあったが、どうも職業に粘ばりが乏しく、折角就職しても長続きがせずあちこちと日雇仕事を拾って歩くものが多く、親達の中には子女が十四、五歳になると、一定期間幾何(いくばく)と言う前金を取って農家に奉公に出す、体のよい「身売り」がままあった。
    旭明社はこうした事実に鑑み、毎年小学校を卒業する児童に対し、進学し得る家庭に対しては進学を奨め、就職する児童に対しては、一生を托し得る職業を撰んで就職を指導し、殊に身売りする家庭に対しては厳重これを警しめて来た。
    p.148
    農革法の施行はウタリに対し、既往の集団生活基盤であった根城とも言うべき、「コタン」の壊崩と謂う一大衝撃を与えた。
     然し乍ら今更「葬式済んでの医者話し」を繰返して見ても、静御前ではないが、「静のおだまき繰返し、昔を今にするよしもない」。
    要はこの一大衝撃を契機として、往時の他力依存の「コタン根生」よりキツパリと脱皮し、堂々と一般社会の中に跳り込み、職業技術を身につけて、強く、正しく、生き抜くことにある。
    かくして「禍を転じて福と為す」これは若きウタリに課せられた責務であろう。
    pp.172,173
    百年の歳月は流れ去った。‥‥‥
     全道の様相が一変したと同様に、旧土人族の実態も亦一変した。
    幕末、明治当初の実態を知るもの誰か隔世の感に、感嘆の声を発せざるを得ないであろう。
    当時一語も日本語を語るを得なかったウタリも、今日では固有のアイヌ語を忘れ果て、反対に和人のアイヌ学者より、アイヌ語を教えられる始末となり、保護法によって設定されたアイヌ古潭 (集団部落) は、その大半は都市の郊外と化し、和人の近代住宅や工場が立並び、土人、和人の見境いは全くつかなくなった。
    コタンの青年男女は、道内の都市に或は道外府県都市に、職を求めて巣立ち、コタンに残れるものは老幼不具廃疾者に過ぎない
    ──渾然一体、一民族一国家──神武肇国の昔より継承されて来た歴期の国是は、茲に至って漸く実現された。
    名実共にウタリーが幸福感を味うのも、茲に至って始めて満喫される所以である。‥‥‥
     温床コタンは消えた。
    ウタリの姿も生れ変った。
    ウタリと言い、シサムと言う名称も、(やが)ては歴史上の名称となる日も遠いことではあるまい。
    若いウタリ諸氏は、こうしたウタリとか、シサムとか言った意識を、椅麗サッパリと払拭し、一般社会人として、一般制度の下に於て、砌磋鍛錬、堂々と大手を振って濶歩されん事を念願する。

      喜多章明「旧土人保護法とともに五十年」, 1971
     『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, pp.367-436.
    pp.369,370
    すでに成墾された畑が一望のうちに坦々として展開し、その中に草の庵の拝み小屋が、ここかしこに点々と散らばって見えた。
     幕末維新の激変によって文化に立遅れ、生存競争に敗れたせいもあろうが、初めて見る旧土人は予想に反し、卑屈、柔順、退嬰的であった。‥‥‥
    元来旧土人は狩猟民族であり、六千六百方里の蝦夷地に於て河海に漁り、山野に鳥獣を追って生活して来たものである。
    春に種を播き、秋になって収穫するといった気の長い生業には適当しない。‥‥‥
    言語、風俗、習慣を異にしている民族、松前五百年の非同化政策の目隠しを取り外されたばかりの民族に、農業によって直ちに生活の途を樹てよということは無理であった。‥‥‥
     ともかく私が大正十一年、帯広コタンに手を着けた当時の実態は以上の如くにして、旧土人の多くは漁夫、和人の農耕夫、日雇人夫等に雇われ、労働賃金を得て、その日その日の生活を送り、給与地はほとんど和人に賃貸されていた。
    pp.370,371
    旧土人互助組合設立‥‥‥しかしながら、これは指導者の指導によって為されたものであり、土人族は自己の意志によらず黙々として随従して来たものであり、しかも保護民の名に甘んじ、他力依存の念が強く、「土人と生れたからには、人に物を施すものにあらず、義務を履行する必要もなく、人から施されるのが当然」だといった傾向が濃厚であった。
    彼等に欠けているものは、「物質の貧乏」にあらずして「精神の貧乏」である。
    従って指導者のあるうちはよいが、指導者が手を引けば元の木阿弥(もくあみ)となることは開拓使庁時代以来幾度か繰返された事実がこれを物語っている。
    pp.376,377
    廃藩置県、明治新政府の号令によって、以上の場所請負制度は廃止されることになったが、困ったのは蝦夷民族。
    漁獲物は交易先がない。
    日常物資の供給者がない。
    漁夫に雇われたくとも雇傭主がいない。
    全く危急存亡の場面に逢着したのである。
    開拓使といえども統治開始早々にして未開の天地に於て右から左と行政、経済の機構を整える余裕があるはずはない。
    そこで開拓使は場所請負人を漁場持と改称し、明治八年迄従来の仕組で経営せしむることにした。
    だが明治八年になっても蝦夷 (蝦夷を旧土人と改称) の同化状態並びに周囲社会環境が進展しないので、明治九年より十三年迄五ヶ年を期して旧土人漁業組合を組織し、生活物資、生業用具の一切を官給して就労せしめ、その漁獲物は開拓使の官吏が直接売捌くという方法を執った。
    現行の保護法第十条にいう旧土人共有財産とは、この収益金の遺産を以て構成されたものであり、その生成の淵源又以てこれに存する。
     当時は旧土人のみの天地であった関係もあろうが開拓使の執った旧土人保護施策は、積極的であり、人類愛にも燃えていたことが察せられる。
    開道百年の旧土人保護史上特筆すべき時代であろう。
     旧土人保護法はこうした環境条件、すなわち松前藩五百年の非同化政策より、一躍明治政府の同化政策へ、百八十度転換するに当って、言語、風俗、習慣を異にする文化にかけ離れた同族を、救恤し、教育し、同化せしめて一般の水準に引上げようとする応急対策であった。 何も旧土人族を先天的に劣等民族であるとの前提の下に制定されたものではない。
    pp.432,433
     農革法の旋風は,その牙城給与地の内、怠惰土人の所有する賃貸給与地の上に吹き荒れたのである。
    農革法の旋風は給与地所有土人の勤務評定でもあった。
    現在まで給与地を持ち続けている土人は、完全なる農家として、完全なる土地所有者として、刻印を押し得る仁士である。

    譲渡制限が撤廃されようと、されまいとに、かかわりなく将来一般の社会人として独立独歩、堂々と生き抜かれるであろう。
    p.433
     教育──これも成功である。
    一時二十一校あった国立土人小学校を全廃して、一般市町村立小学校に収容した。
    今では土人の議員あり、官公吏あり、政財界の大立物もある。
    土人族中の文博知里真志保は、昭和十二年改正保護法第一号の給費生であった。
    pp.433,434
     天二物を与えず。
    農革の衝激によって、彼等は好むと好まざるにかかわらず、惰民の温床「コタン」を離れ、或は和人の侵入によって,一般人と混住するに至った。
    しかして混住によって自立自営の精神を涵養する機会を与えた。
     「転禍為福」、農革法によって一大犠牲を払ったがこの犠牲に代うる自立精神の昂揚を以てした。
    アイヌ人の貧乏は物質貧乏にあらず、精神貧乏であった。
    何事に対しても為さんとする精神、何事に対しても根強く努力する精神に欠けていた
    故に、物質にも恵まれず、社会の下層に沈淪するが故に社会の蔑視を受ける
    社会の蔑視を受けることは、あながち人種によるもののみとはいえない。
    胆振の大河原コビナシトク氏の如きは、純粋のアイヌ人であったが、彼氏が出席しなければ村会が開けなかった。
    それは彼氏が財力において、経世経論の才において、社会人心の上に卓越していたからである。
    いくら和人種だからといっても、落ぶれて乞食となればだれが敬意を払うものか。
    p.434
     私は指導上の方針としてコタンの存在を好まなかった。
    松前藩は蝦夷地、和人地の区域を定め、彼我の混住を禁じた。
    コタンの存在はその区域を細分したようなものであった。
    pp.434,135
    ウタリ諸氏に告ぐ、
     (1) 先づ諸氏はアイヌ人という意識を去れ
     (2) 他力依存のコタン根性を洗脱せよ
     (3) みだりに民族自体を売物にするなかれ
     (4) 職業入、独立の社会人としての実力を涵養すべし
     (5) 一事貫行の努力と忍耐に打勝て
     (6) 人種差別を憂うる若者は、思い切って津軽海峡を渡れ。一歩渡れば諸君が祖先の故郷(ふるさと)。同族県民の住む東北地方──。人種差別の影もない。
     心身共なる同化、一国家一民族──。
    それはウタリ諸氏が心身共に救われる所以であり、地上の楽園はそこに在る。
    アイヌ人と呼び、シャモと称する時代はすでに去っている。
     一般社会に伍し、一般制度の下で生活されつつある諸氏、更に一段と砌磋鍛錬、よい職業人として、よき社会人として、堂々大手を振って大道を闊歩されんことを


    上に引いた文言は,一介の学校教員が教室でこれをしゃべれば,即「アイヌ差別」にされる。
    喜多章明のことばなので,「アイヌ差別」にならない。

    喜多章明の論説を編集した『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』(北海道出版企画センター, 1987) で,貝澤正/北海道ウタリ協会副理事長が「序」を書いている。
    その中に,つぎの一文がある:
     
    p.3
    中曽根総理は「日本は単一民族国家」と発言したことでアイヌが怒ったのは、最近のことだが、喜多先生が同様のことを言っても誰も怒ったりしなかった。

    誰も怒ったりしなかったのは,喜多章明が「先生」だからであり,先生として至極もっともなことを言っているからである。
    喜多章明の前では,みな「青二才」になる。


    商品経済は,国を単一民族国家にする。
    商品経済は,世界に対しては「グローバリズム」となり,世界を単一国家世界にする。
    ──「多国籍企業」!

    喜多章明は,商品経済の理念の体現者である。
    よって,<商品経済で生きる>が自分の<生きる>になっている者──すなわち,われわれ総て──は,喜多章明の言っていることを否定できない。
    怒ることは,できない。

    喜多章明の言に対し言えることは,好き嫌いである。
    言えばそうなるのだが,その言は好きではない」である。

    強調するが,喜多章明の言に対し「好きではない」を言うことは,喜多章明の言 (「商品経済で生きよ!」) を否定したことではない。
    実際,喜多章明の言に対し「好きではない」を最も強く言うことになる者──それは保護派"アイヌ" であるが,彼らはアイヌ系統者のうちで最も<商品経済で生きる>を実践することになる者である。──即ち,「観光アイヌ」という形で。
    商品経済は,《人のどんな構え・行動も,それを商品にせずにはおかない》というわけである。