Up "差別" の物理 : 要旨 作成: 2017-06-13
更新: 2017-06-13


    "差別" は,"差別反対!" を唱えることが相応しいとなるものなのか。

    "差別反対!" の理は,「みな同じ○○なのだから」である。
    「○○」に「人間」を入れると,人道主義になる。
    「動物」を入れると,「動物愛護」である。
    「生き物」を入れると,博愛主義か。

    しかし,「みな同じ○○なのだから」は,ご都合主義になる。
    「人間」「動物」「生き物」は,自分の好みで考えている。
    自分の嫌いなものは,しっかり排除する。


    わかりやすい場合として,狭い部屋にゴキブリ百匹と一緒に放り込まれたとする。
    ふつうの者は,パニックになる。
    手元に雑誌かスリッパがあれば,それでゴキブリを叩き潰しにかかる。

    この場合,ゴキブリは人に危害を加える者ではない。
    人の一方的な「気味が悪い」によって,虐待され,殺されるわけである
    ゴキブリにとっては,理不尽この上も無い。

    さて,このときゴキブリを抹殺できる方法が無かったら,ひとはどうなるか。
    これは,ゴキブリに慣れるしかない状況である。
    そして実際,ひとはこの状況に慣れることになる。
    「気味が悪い」が薄れていくのである。
    そして,この部屋で,食事をとったり,布団を敷いて眠ることがふつうにできるようになる。

    ゴキブリに対する「気持ち悪い」が無くなると,ゴキブリをきちんと見るようになる。
    すると,ゴキブリがなかなかにすごい生き物であることがわかってくる。
    そして,ゴキブリに対するリスペクトの念が湧いてくる。


    実は,以上が,"差別" とこれの消散のダイナミクスである。
    "差別" は,「みな同じ○○なのだから」の思いが無いために起こったのではない。
    また,「みな同じ○○なのだから」の思いを持つことで消散するのではない。
    「気味が悪い」が "差別" を生む。
    そして,「気味が悪い」が無くなり対象と正対できるようになるときが,この "差別" が終わるときである。
    対象と正対できるようにさせるものは,対象との交わりの慣れである。
    慣れは,時間を要する。
    その間,虐待が行われる。
    こうして,虐待史は不可避である。


    "差別" の構造の核心は,《一緒を強いられる》である。
    「気味が悪い」は,一緒の場において攻撃の機能になる。
    離れていれば,問題は起こらないわけである。
    実際,「気味が悪い」は,《適切な距離をとる》の機能において適切なものになる。

    互いの間に適切な距離をとることを,「敬遠」と謂う。
    疎い対象は,用心・警戒の対象,畏怖の対象になる。
    「気味が悪い」というわけである。
    しかし,離れていれば害は無いことを経験的に知るようになると,この感情は「敬遠」になる。

    商品経済は,人を一様化する。
    時代の流れは,生活形態を異にし距離をおいてこれまで生きてきた者に,一緒を強いるようになる。
    こうして,様々な "差別" が出現する。
    これが,"差別" の物理である。

      「一緒を強いられる」のいちばんの場所。
      それは,義務教育校である。
      学校は,つねに "差別" の温床である。
      これは,構造的なものであって,どうしようもない
      ──「いじめ」のことばは,この構造を隠蔽する。


    "差別" の物理に,善悪はない。
    一方,"差別" を善悪物語にする者たちがいる。
    "差別反対!" を唱える者たちである。
    彼らは,物理がわからない者たちである。
    彼らにとって "差別" は,"差別反対!" を唱えることが相応しいとなるものである。