Up | アイヌ協会「国連総会記念演説」(1992) | 作成: 2016-11-21 更新: 2016-12-10 |
「植民・開発」政策で北海道に和人が入ってくることで,アイヌは無用のものになる。 「収奪」のことばがスピーチの中に見えるが,事実は違う。 つぎが,アイヌの位相になったのである:
「アイヌから得られるものがある」は,松前藩の時代のものである。 松前藩のアイヌ統治の方法は,家禽飼育法と同型である:
飼育法は,たまごを確実に回収できるようにする飼育法である。 そのために,ニワトリの変容につながるようなことを,排除する。 そして,アイヌを変容させないために,アイヌを感化すること,和人の知識・技能を与えることを,禁じる。 この中には,文字を使えるようにしないとか,畑作をさせないとかが,ある。 たまごが欲しいものでなくなるとき,ニワトリは要らなくなる。 これと同型で,「植民・開拓」の時代になると,アイヌは無用の存在になる。 そのうえ,松前藩のアイヌ統治のやり方により,アイヌは自活できない者として自らを形成してしまっている。 スピーチの中に,「先祖伝来の土地で民族として伝統的な生活を続けていくことができなくなった」のことばがある。 アイヌにとって,土地は「自分の土地」ではない。 「自分の土地」即ち「私有地」は,商品経済になって出てくる概念である。 熊にとって土地が「自分の土地」ではないように,アイヌにとって土地は「自分の土地」ではない。 熊にとって,土地の意味は「なわばり」である。 アイヌは,これと同じである。 アイヌにとって土地は,なわばりである。 和人の入植は,アイヌにとって,自分のなわばりの侵食である。 「土地所有」のルールは,「権利」──「権利をもつ者が占有する」──である。 「なわばり」のルールは,「力」──「力をもつ者が占有する」──である。 アイヌは,商品経済の「土地所有」の概念とは無縁の者である。 そこで,アイヌは,和人になわばりを侵食され,はじき出されるままになる。 土地を逐われるままになる。 "アイヌ" が「アイヌの土地」という言い方をするのは,"アイヌ" が商品経済の者だからである。 熊はアイヌに逐われた土地を「自分の土地」とは言わないが,子孫が商品経済に生きる者になったとき,その子孫は「熊の土地」を主張し,さらに「熊民族/先住民族」を唱え,政治運動することになる。 アイヌは,<無用になり,自活できず,そして在所定まらぬ> この体のアイヌに対する政治は,3通りである。 放任するか,保護するか,同化するか,である。 「保護」は,アニミズム社会保護区を設けてアイヌを囲い込むというものである。 「同化」は,アイヌを商品経済社会で独り立ちできるようにする──主体として生きられるようにする──である。 政治が選ぶことになるのは,「同化」である。 実際,いまの "アイヌ" に選ばせても,「同化」になる。 時の政府は,「同化」を「アイヌを農業で自立させる」にした。 そしてこれを進めるための法として,『北海道旧土人法』を制定した。 「商品経済社会での独り立ち」は,法のみで成るものではない。 「教育」も要る。 「教育」の内容は,「同化」である。 実際,いまの "アイヌ" に選ばせても,「教育」は「同化」になる。 「別の道」は,商品経済の中に放任するか,アニミズムの者として保護するか,だからである。 「同化」の流れには,抗えない。 「同化」の内容 (「アイヌを農業で自立させる」) に対しては否定が立つが,「同化」そのものの考えは,否定できない。 「同化」の流れに抗えないのは,重力で物が落ちるのに抗えないのと,同じである。 しかし,"アイヌ"イデオロギーは,「同化」の否定を,自分の条件にしている。 重力を認めれば,物が落ちるのを受け容れるしかない。 そこで,"アイヌ" イデオロギーは,重力を隠蔽しようとする。 この行為が,「事実捏造・歴史改竄」である。 "アイヌ" イデオロギーは,つらい立場である。 "アイヌ" イデオロギーは,いい気になって,事実捏造・歴史改竄をやっているのではない。 「同化」を否定することばを,無理矢理紡がねばならない立場なのである。 こうして,嘘八百を並べるふうになる:
「アイヌ語の使用を禁止され」 「ひどい差別や経済格差は依然として残っています」 「現存する不法な状態」 「民族根絶政策 (エスノサイド)」 |