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貝澤藤蔵『アイヌの叫ぴ』, 1931
小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, pp.373-389.
pp.375
内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類) を着て毎日熊狩をなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んで居る種族の様に思ひ込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります。
折襟にロイド眼鏡を掛けた鬚武者の私が、毎日駅に参観者の出迎へに出ると、始めて北海道に来た人々は、近代的服装をしたアイヌ青年を其れと知る由もなく、私に色々な質問をされます。
内地でも片田舎の小学校の先生かも知れません其人に、「アイヌ人に日本語が分りますか?何を食べて居りますか?」と質された時、私は呆れて其人の顔を見るより、此人が学校の先生かと思ふと泣きたい様な気分になりました。
「着物は?食物は?言語は?」とは毎日多くの参観者から決って聞かれる事柄です。
けれど此様に思はれる原因が何処にあるかとゆふ事を考へた時、私は其人々の不明のみを責め得ない事情のある事を察知する事が出来ます。
常に高貴の人々が旅行される時大抵新聞社の写真班が随行されますが、斯うした方々が北海道御巡遊の際、支庁や村当局者が奉送迎せしむる者は、我々の如き若きアイヌ青年男女では無く、殊更アツシ(木の皮で織った衣類) を着せ頭にサパウンベ(冠) を戴かしたヱカシ(爺)と、口辺や手首に入墨を施し首に飾玉を下げたフツチ(老嫗) だけです。
此の老人等がカメラに納められ、後日其の時代離れのした写真と記事が新聞に掲載される時、内地に居てアイヌ人を見た事のない人々は誰しもが之がアイヌ人の全部の姿であると思ひ込むのも無理ない事だらうと思ひます。
否々其ればかりではなく、時偶内地に於て内地人がアイヌ人を見受ける時は、山師的な和人が一儲けせむものと皆を欺し、アイヌの熊祭と称して見世物に引連れて居る時であります。
之じゃ何時迄経っても内地に居られる人々は熊とアイヌ人とを結び付けて考へるだけであって、真に時代に目覚めたアイヌ人の姿を見、其の叫ぴを聞き得ない訳であります。
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森竹竹市「見世物扱ひを中止せよ」,『小樽新聞」1934-08-24
小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, p.399
◇新聞の報道によると来る二十九日室蘭に入港する聯合艦隊歓迎に際し松尾市長は胆振支庁長の賛成を得て白老アイヌを招き、熊祭りとアイヌ舞踊を将兵に観覧させるとの事であるが、私は全道一萬五千有余のアイヌ民族の名においてこれが中止方を希望するのものである。
◇従来高位顕官の本道を視察に際し、これが接伴の任にあたる当局者は蝦夷情調を深めてその旅情を慰むるためか、殊更アイヌの古老連に旧式な服装をして駅頭に送迎せしめ、あるひは熊祭や手踊などを開いて観覧に供し、同行の新聞記者や写真班員はまたこれが恰も北海道のアイヌの民族現在の日常生活なるが如く報道し、ために世人の認識をあやまらしめ、延いてはこれに対する侮べつ嘲笑の念を誘発せしめてゐたのはわれわれの憤まん禁じ得なかったところである。
◇われわれは今日の非常時を認識することにおいて人後に落つるものではなく、従って直接護国の任にあたる皇国将兵の労苦を思ひこれを慰めんとする誠意においてまた何人にも譲るものではないが しかしそれには後進民族を見世物扱ひするが如き非人道的方法によらずとも他に幾多の方法はあるべく、私は同族の一人として黙視するに忍びず、敢てこの言をなすものである。
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