Up | アイヌ終焉の構造/ダイナミクス : 要旨 | 作成: 2016-05-18 更新: 2016-05-18 |
このとき何が変化しているのか。 系である。 系は,運動する系であり,絶えず変化する。 運動と変化は,系の含意 (implication) である。 いまの時代は,新しい時代に取って代わられる。 新しい時代が取って代わるとき,いままでの時代の様式は旧式となり,終焉する。 旧式であるとは,新しい時流に適応できないということである。 老人は,旧式を表している。 栄光ある歴史の大企業は,いまは新興勢力に苦戦するものであり,旧式を表している。 シャッター通り,限界集落は,旧式を表している。 アイヌは,和人のいじめによって終焉したのではない。 商品経済が遍くことで,終焉した。 商品経済の前には,アイヌは旧式だったからである。 商品経済の前に旧式となって終焉したのは,アイヌばかりではない。 和人の中でも,様々なものが旧式となって終焉した。 アイヌは,同化政策によって終焉したのではない。 実際,同化政策は,旧式の終焉をソフトランディングさせることが機能である。 旧式に対し同化政策を発動しないと,どうなるか。 すなわち,旧式を滅ぼされるままにすると,どうなるか。 旧式潰しの蛮行が横行闊歩する。惨状の展開になる。 アイヌの「自然との共生」は,商品経済の前に旧式になる。 商品経済は,「自然との共生」という生活形態を不可能にする。 商品経済の侵出によるアイヌの終焉は,チェーホフが『桜の園』で描いた<商品経済の侵出による土地貴族の終焉>と同型である。 アイヌは,「自然との共生の民」として,自己リスペクトする。 実際,アイヌに対するリスペクトの形は,「自然との共生の民」である。 そして,このリスペクトの対象は,アイヌにとっても和人にとっても,いまは存在しない。 「自然との共生の民」としての「アイヌ」の末裔であることは,何の意味ももたない。 「アイヌ」の末裔であることを理由にして要求できることは,何もない。 このことを改めて述べるのは,「アイヌ」イデオロギーによる要求運動があるからである。 「アイヌ」イデオロギーの要求は,「賠償」である。 このロジックは,《「自然との共生」を奪われた》である。 これは,《奪われなかったら,「自然との共生」をずっとやっている》を含意する。 このロジックは,自家撞着である。 《奪われなかったら,「自然との共生」をずっとやっている》は,嘘だからである。 イデオロギーを用いるにおいても,賢愚がある。 嘘を嘘だと知らず,本当だと思って主張する者は,愚者である。 嘘を嘘だと知って,これを方便として用いる者は,賢者である。 政治は,方便である。 いまのアイヌ政策は,方便である。 政府の賢人とイデオロギーの賢人が,両者の間で<落としどころ>をさがす。 この結果が,現前のアイヌ政策である。 アイヌ手当予算は,これが正しいという認識で組んでいるわけではない。 これで丸く収まるという認識で,組んでいるわけである。 「アイヌ」イデオロギー,アイヌ政策に対し,尖ってこれを批判する者は,愚である。 ここに,科学の方法──方法論としての「科学」──を強調する意味がある。 科学の目には,現前は「現成」("no more than this") である。 デタラメも,「現成」である。 科学は,現前を「現成」と捉えることを専らとする。 |