Up | 砂沢クラ | 作成: 2016-07-17 更新: 2016-07-17 |
「天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活」のことばを,人の一生のリアルタイムに引き伸ばすとどうなるか。 砂沢クラ著『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』が,これを示す。 内容は,苦労がほとんどの一生である。 しかし,その苦労話は,アイヌイデオロギーの読者が期待するような「和人がアイヌに害を為す」ではない。 だいたいが,アイヌという生活それ自体に根ざす苦労話である。 「山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく」には,「災害,事故,病気や不猟不作に悩まないで済む生活の実現」の含蓄がある。 自然は,自然の猛威に翻弄されるところである。 自然は,つねに事故と隣り合わせの危険なところである。 自然は,病気と隣り合わせのところである(註)。 不猟不作は自然のリズムであり,狩猟採集生活を営むとは不猟不作を伴にするということである。
自然の中に生きることは,災害,事故,病気につねに曝されることである。 災害,事故,病気に遭う確率は高い。 不猟不作は,いつものことである。 そして,不幸は,独りのものではない。 共同生活では,員の不幸は,全体の共倒れに繋がる。 不幸は,連鎖する。 こうして,「平穏な生活」は奇跡である。 「天寿全う」は奇跡である。 アイヌの人口は,高々数万人だったようである。 この数字に読むべきは,「これが目一杯」である。 自然は,「これが目一杯」であるほどに苛酷だということである。 アイヌは,和人の進出によって,はじめて苦労するようになったのではない。 和人という生き方にアイヌという生き方が反照・相対されるとき,アイヌという生き方は自ずと<苦労>に映じることになるのである。 日本人は,ずっと欧米に憧れてきた。 これと同じふうに,アイヌはシャモに憧れた。 憧れるのは,相対的に自分の生活の貧しさを見るからである。 憧れは,錯覚である。 しかし,ひとはこの手の錯覚で生きる生き物である。 事実として,アイヌはシャモに憧れた。 そして,シャモの生活に同化されることには,アイヌという生き方の<苦労>よりましになる面があった。 こうして,アイヌはアイヌという生き方をやめた。 即ち,アイヌはいなくなった。
|