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松浦武四郎 (1857-1860), pp.741,742
東西の蝦夷地たるや其場所々々に酋長、小使、土産取等云る役あり。
其小使役を勤めける者なるが、石狩場所中川筋トツクといへる處や、運上屋より里程凡四十里餘にして、船路五日を上る地なるが、其地に住するトミハセ 三十七歳 といへる者、‥‥
五六年も以前に父母共に死し、其より大に力を落し、其墓へ朝となくタとなく唯さめさめと涙をこぼしては何事か云よし。
また運上屋へも下りある時は、朝な夕な山の方へ向ひては何事やらん云よしにつきて、衆夷是を不思議に思ひ、我は何事を朝な夕な言ふやと尋ねしかば、何ぞ別のことゝでもなし、今日は寒かった、今日は暖かかった、何の業をなしたり、何處へ行たり、今歸り来りしなど皆一々親へ告知らすなりと答へたりとかや。
然るに依て其を尋ねし夷人等も、其功(孝)なる心に感じ、唯閉口をぞして默したるとかや。
其事は余去年ウリウより西海岸へヌフシヤといへるを越るに連行しときに、他の夷人より話しに聞居たりしが、半ば信とも思ひ半ば聊か疑ひも居たりしに、
今年また五月に余石狩に着するや、チタラヤ キナといへるもの小さきなり。神酒呑する時に用ゆ。 一枚を持来り、去年種々手當を遣したる禮を演(のべ)たりしかば、其篤實に我も愛で感じ、此度も山行には借致し呉れ候様に頼み約し、
土産に酒壹升を遣すべきが是は此處にて遣し候べきやまた大樽に入れ山に持行き山に入りてより遣し可レ申哉と尋ねしかば、
左候はゞ其の酒は山へ行きてよりほしき由申たりけるが、
其は何故に山にて宜敷ぞと尋ねしに、
山にてもらひ候はゞ墓所へ上るよし答へぬ。‥‥
‥‥ 我等山へ行き、トツクへ着し、約定の通りに其一升をば遣せしかば、
直に之を親の墓所へ持行き、やゝしばらく其酒を手向け、また自らも呑等して、いと嬉しげに拜し畢て歸り来り、‥‥
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比較せよ: アイヌの「死」の観念
引用文献
- 松浦武四郎 (1857-1860) :『近世蝦夷人物誌』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.731-813
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