Up 「土人」呼称 作成: 2017-01-27
更新: 2017-02-01


    『旧土人保護法』の「旧土人」は,差別語であると思われている。
    和人はアイヌを旧土人と呼んで差別した」というわけである。
    (このときの「差別」の意味は,「蔑視」「薄遇・冷遇」「苛虐・虐待」「迫害」等。)

    「旧土人」の用語の経緯は,はっきりしている:
    それは,明治11年11月4日付本支庁宛の「第二十二号達」である:
      旧蝦夷人ノ儀ハ 戸籍上其他取扱向一般ノ平民同一タル勿論ニ候得共 諸取調者等区別相立候節ノ称呼一定不致候ヨリ 古民或ハ土人旧土人等区々ノ名称ヲ付シ不都合候条 
    自今区別候時ハ 旧土人ト可相称 
    但旧土人ノ増減等 後来ノ調査ニ差支サル様 別ニ取調置へシ

    この文言の中の「旧土人」は,差別語ではない。
    「旧土人」と呼ぶことが差別になるのは,「旧土人」が差別語になっている場合である。
    ゆえに,「和人はアイヌを旧土人と呼んで差別した」は,デマゴギーである。
    (三段論法!)


    「旧土人」は,どうして差別語だと思われるようになったのか。

    「旧土人」を差別語だとひとに思わせようとする者たちが,いる。
    彼らは,「和人はアイヌを旧土人と呼んで差別した」をあちこちで唱える。
    このプロパガンダが功を奏し,ひとは「旧土人」を差別語だと思うようになる。


    「旧土人」をひとに差別語だと思わせようとする者は,何が目的か。
    彼らには,やっつけたい者がいる。
    その者をやっつけるために,その者を<悪>に仕立てる。
    そして,ひとに義憤を抱かせて,その者をやっつけるよう仕向ける。

    「旧土人」をひとに差別語だと思わせようとする者たちは,誰をやっつけたいのか。
    為政者である。
    彼らは,為政者を悪に仕立て,ひとに義憤を抱かせ,為政者をやっつけるよう仕向ける。
    この者たちの思考回路を,ここでは "アイヌ"イデオロギーと呼ぶことにする。


    "アイヌ"イデオロギーの思考回路は,一般的に述べると,つぎのようになる:
    1. 社会は,「抑圧者 対 被抑圧者」である。
    2. 抑圧者が倒され被抑圧者が解放される事変──「革命」──を期す。
    3. 革命を実行する者は,被抑圧者とこれを指導する革命的インテリゲンチャである。
    4. いま取り組むことは,革命の引き金をつくることである。
    5. 革命の引き金の核心は,抑圧者に対する憤りである。
    6. 抑圧者に対する憤りを醸成する方法は,抑圧者の悪らつの物語を聴かせることである。
      この種の物語をたくさん揃え,ひとにたくさん聴かせることをしょう。
    7. 革命は絶対善であるから,抑圧者に対しひとを憤らせることができるなら,物語は嘘でも構わない。
      デマゴギーも,革命の立派な戦略である。
      抑圧者に対しひとを憤らせることができるデマゴギーをたくさん揃え,ひとにたくさん聴かせることをしよう。

    デマゴギーは,つねに成功を見る。
    ひとは,プロパガンダの内容の真偽を確かめようとは,しないからである。
    そこで,デマゴギーを用いる者は,ますます図に乗ってデマゴギーを用いるようになる。


    「土人」は,いつ頃から差別語とされるようになったのか。
    すくなくとも,1960年より前ではない。
    それまでは,「土人」はふつうのことばである。

    「土人」が差別語でない証拠に,終戦直後時期,先鋭的"アイヌ" を引き寄せた『アイヌ新聞』に, 「土人」のことばがふつうに使われている:
      アイヌ新聞, 第7号, 1946-07-01
    アイヌ問題の解決
    和人対土人の "融和" こそ急務
    斗争は大禁物!!
    最近アイヌ土地問題等を中心に旧土人対和人の斗争が表面化し、之が解決方も日本人側官憲に頼むに足らずとしアイヌ側の一部では直接進駐軍へ訴へるものもあり、斯くては民主化への目的に反するものとし、進駐軍も日本官憲に円満な解決を望むものである態度を示してゐる。
    然し乍ら之等アイヌ問題は通称一般社会問題と異る "民族問題" であり、然も従来道庁や裁判所等でも責任ある解決をしたのが余り少なかった為に結局進駐軍へ請願してゐるものである。
    此の際特に北海道庁は等閑視する事なく、絶対責任を以て、現在発生して未解決の侭にあるアイヌ問題を解決すべきであると共に、和人対土人の融和といふ面にも指導の力を注がねば結局道庁の無責任振りを暴露するものであらうと識者は観測してゐる。
    尚アイヌ問題研究所では近く支庁別の「アイヌ会議開催」方を増田道庁長官に訴へる事を決定期待されてゐる。

    そして,「土人」に対する思いは,「差別」とは全く逆の「畏敬」である。

    「アイヌ」もそうである。
    かつて,「アイヌ観光」ブームがあった。
    「どこもかしこもクマの置物・壁飾り」という時代があった。
    どこの世界に,自分が差別している者のグッズをよろこんで飾る者がいる。
    「アイヌ」に対する感情が「好感」であったからこそ,グッズが飾られたのである。


    事実は,以下の通りである。

    アイヌ系統者は,「自分をアイヌ系統者として現す」について,つぎの二派に分かれる:
    1. アイヌ扱いされることは,「アイヌ特権」を含めて,不本意である。
      よって,自分をアイヌとして現すものは,無くさねばならない。
    2. アイヌ扱いされることは,「アイヌ特権」の意味で,本意である。
      よって,自分をアイヌとして現すものは,無くしてはならない。

    aにとって,『旧土人保護法』は無くさねばならないものである。
    そしてこれは,「旧土人」のことばがどうのという問題ではない。

    bにとって,『旧土人保護法』は,これの他に「アイヌ特権」の根拠法が無いとすれば,無くしてはならないものである。
    一方,bは,「アイヌ特権」の合理化として,「蔑視」「薄遇・冷遇」「苛虐・虐待」「迫害」の意味の「アイヌ差別」を訴えることになる。
    『旧土人保護法』に対しては,「旧土人」を差別語として非難する。
    また,bは,「アイヌ特権」の増大を求めて,『旧土人保護法』にかわる新法を求めていくことになる。
    そしてこのステージになると,『旧土人保護法』は無くして構わないものになるから,デマゴギーはさらに酷くなる。

    デマゴギー,ヘイト問題の出自・所在は,いつもbなのである。
    ここは,重要なところである。
    実際,"アイヌ"学の要諦は,これの押さえにある。


    デマゴギーには,一つの類型がある
    それは,「原因結果をひっくり返す」である。

    『旧土人保護法』は,明治32年に制定である。
    明治政府になってから,30年以上経っている。
    この間,アイヌはどうなっているか。
    アイヌの生活は壊れ,アイヌは「流浪の民」化している。
    そこで,『旧土人保護法』となったわけである。

    デマゴギーは,この因果をひっくり返す。
    『旧土人保護法』がアイヌの生活を壊した,というストーリーにするのである。


    繰り返すが,デマゴギーは,つねに成功を見る。
    ひとは,プロパガンダの内容の真偽を確かめようとは,しない。
    そこで,デマゴギーを用いる者は,ますます図に乗ってデマゴギーを用いるようになる。

    このデマゴギーにいちばん引っかかるのは,実は「アイヌ学者」である。
    一般者はもともと「アイヌ」に無関心な者であるから,デマゴギー・プロパガンダは彼らのもとには届かない。
    これをキャッチするのは,「アイヌ学者」である。
    そして,他愛なくひっかかってしまう。

    どうしてこうなるかというと,ひとは,ロジックよりも,「正義」を採るのである。
    デマゴギーは,義憤に訴える物語である。
    ひとは,正義の味方でいたいから,義憤を表明する。