Up 救済対策──勧農 作成: 2017-02-15
更新: 2017-02-15


      喜多章明「旧土人保護事業に就て」, 北海道社会事業, 第50号, 1936.
    『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.59-78.
    p.74
     本道の開拓方針は、内地人を移して之に当らしむる事になったが故に内地人は歳と共に増加し、新しい天地に於て目覚しい活動が開始された。
    即ち明治五年、八万八千九百余人であった人口が、明治十年には十八万となり、十五年には二十四万人となった。
    而して是等の移民は未だ永住の意志なく、新天地に於ける一擢千金を夢見て渡道したものであったから、眼前の利益以外何物もなく、更に永久を顧慮する処なく濫獲を行ったから、さしもの天然資源も漸く減滅し、土人等は唯一の生活資源を失って路途に迷ふに至った。
    ──即ち従来の如く海に漁り、山に猟して生活することは至難となった。

    ここで,開拓者の土地所有は,『地所規則』(1872) が定めるところの「官有地の下付」である:
     第七条
       山林,川沢,従来土人等漁猟,伐木仕来シ地ト雖モ,更ニ区分相立,持主或ハ村請ニ改メ,是(また)地券ヲ渡シ,尓後(じご)十五ケ年間,除租

    この規則は, 「アイヌに対し一般人同様土地を下付」の含蓄を読むようには,なっている:
     
    p.75
     茲に於て開拓使は、貧窮せる者を救ふと共に、農耕に転業せしめて生活の安定を図らんとし、明治五 [1872] 年制定の北海道土地払下規則に依り一般人同様土地を下付し、家屋及び農具、種子を給与し、時には農業指導員を派して、実地に農耕を教へる等勧農政策を執った。

    しかし,状況はつぎのように推移する:
     
    p.75
     されど、既往久しく漁藻の裡に育ち、何等農耕に経験なき同族は土地を管理利用する能力なきは勿論、折角給与されたる土地も動もすれば酒食の代償として喪失し、己は亦元の木阿弥(もくあみ)となって放浪の生活を送ると言ふ状態

    そこで行政は,アイヌに下付した土地が和人に纂奪されないためとして,つぎの施策を加える:
     
    p.75
    明治十 [1877] 年北海道地券発行条例を制定し、その
     第十六条
      旧土人住居の土地は其の種類を問はず尚総へて官有地第三種に編入すべし。
    但し地方の景況と旧土人の情態に依り成規の処分をなすことあるへし。
    に依り、当分の内所有権を附与することを保留し、単に事実上の割渡しをなして耕作に従事せしめ、以て和人の纂奪を防いだ。

    しかし,企図したようにはならない:
     
    p.75
    かくて歳月を経過するに従って係役人が更迭し、段々之が沿革を忘れられて普通の官有地と誤認し、一般に払下げると言ふ弊害を生じた。
    一面彼等は一般内地和人に伍して生活戦線に起ったものの知識文化の劣れる同族は、無惨にも一敗地に(まみ)れ、困窮のどん底に陥ったのみならず、旧土人の土地を何時迄もかく曖昧なる状態に置く事は、弊害の醸生される原因であったが故に、之が解決をなすべき保護法制の制定は歳と共に痛切に要求されて来た。

    こうして,明治32 [1899] 年『旧土人保護法』の制定へとつながっていく。