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喜多章明「旧土人保護法とともに五十年」
『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, 1971, pp.367-436.
pp.412,413
私はその後、岩手県より軍事保護院へ、軍事保護院より宮城県へ、宮城県より厚生省へと、水草を追って浮草稼業を続け、昭和二十二年二月退官、第二の故郷十勝帯広に帰り、再びアイヌ民族に見ゆることになった。
帰って見れば何のその、十勝のウタリは農革法の旋風に見舞われて、賃貸せる給与地は公収されることになり、血まなこになって騒いでいる最中であった。
十勝としては稀な大雪、白唯々たる十勝の平原にウタリのみならず一般の人々は食物を求め、衣料を求めて右往左往していた。
こうした環境の中に私は帯広駅頭に降り立ったのである。
待ってたとばかりに十勝ウタリの面々、土田豊三郎君(池田)、沢井初太郎君(本別)、吉田菊太郎君(幕別)、小川長次郎君(帯広)、西川菊蔵君(音更) 等は、私の周辺に集った。
旅装を解く暇もなく私は旧土人給与地確保運動の先頭に立つことになった。
不在中空席になっていた十勝旭明社 (大正十一年設立) の社長の地位に復した。
今後の運動を進める上において之を社団法人に改組し 一方昭和六年設立の北海道アイヌ協会は、日高の小川佐助君、浦河太郎吉君、胆振の森竹竹市君、森久吉君、伊達の向井山雄君等によって、これ又社団法人に改組 (現在のワタリ協会) し、向井山雄君を会長に据え、東西相呼応して戦端を切った。
社団を枢軸としてウタリの代表者は再三再四にわたり道庁当局を訪れ「旧土人保護法は農地改革法に対し特別法であるから、給与地は農革法の適用を除外」されるよう嘆願した。
これは立法の趣旨よりして当然のことであり、当時道庁の庁議も次の如く保護法が優先すべきものとして決定していた。
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