「協会」の機関誌発刊は,「アイヌ協会」設立の同年,即ち 1946年から高橋真の『アイヌ新聞』においてアナウンスされるが,1948年の『北の光』創刊号までが持ち越される。
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高橋真『アイヌ新聞』
小川正人・山田 伸一 (編)『アイヌ民族近代の記録』, pp.234-276.
第五号, 1946-05-15.
『アイヌプリ』発行
アイヌ協会文化部では機関紙『アイヌプリ』を五月から発行する事となり論説、随筆、文芸、伝説、地名、其の他の原稿をウタリーから募集してゐるが締切は毎月七日で、宛名は勇払郡鵡川村汐見辺泥和郎氏
第六号, 1946-06-11.
協会の機関誌
アイヌ協会の機関誌は都合で七月に創刊号を出す。
編輯者は知里真志保、辺泥和郎、高橋真の文化部員だが、ぞくぞく投稿を希望してゐる。
第一四号, 1947-05-25.
社告
本誌を北海道アイヌ協会の機関誌とせられたいとの話あり 本社に於ては特に研究中に付,読者のご意見を求める次第です。
アイヌ新聞社
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この2年間の延引について,『北の光』 創刊号で小川佐助/常任理事がつぎのように言及している:
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小川佐助/常任理事「アイヌ協會存立の趣旨と使命」
『北の光』, 創刊号, 1948. pp.6-10.
北海道アイヌ協会『アイヌ史 協会活動史編』, 1994. pp.192-196.
本會設立の当初に於て、事業の一つにあげられた機関誌の編輯が、事務陣容の不備から今日まで延引したことは、會員各位に対して誠に申訳無いと思って居ります、事務担当の責任に於て幾重にも御詑び申上げます。
幸、此度事務陣容が整ったのに伴って、本誌編輯も亦急速に軌道に乗り、今日創刊号の発刊を見るに至ったことは本會の為め、會員各位と共に誠に御同慶に堪へません。
編輯担当の方と共に、會員各位のたゆまざる御努力に依って、本誌が最も有効に健全に益ゝ発展されんことを切望して止みません。
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しかし,『北の光』は,創刊号で終わりとなる。
実際,これの内容は,次号をつなげられるものではない。
これは,喜多章明が自分の危ない面をもろに出してしまったところの,喜多章明の個人雑誌である。
喜多章明の欠点は,相対主義が無いことである。
《優劣は,ゲームでの優劣であり,ルールを変えればひっくり返る》の考えをもたない。
そこで,アイヌ文化を絶対的劣等文化にして,これを改めよと "アイヌ" に説く。
『北の光』創刊号は,この説教役を向井山雄/理事長と小川佐助/常任理事が担当する。
向井山雄「全道ウタリー諸子に告ぐ」は,物言いが次第に「教育勅語」調に昂じていく。
小川佐助「アイヌ協會存立の趣旨と使命」は,度を越した卑屈 (マゾヒズム) をポーズする。
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向井山雄/理事長「全道ウタリー諸子に告ぐ」
『北の光』, 創刊号, 1948. pp.4-6
北海道アイヌ協会『アイヌ史 協会活動史編』, 1994. pp.190-192.
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余は先ずアイヌ民族共通の性格的欠陥として「短気にして粘ばり気がない」事を是認せざるを得ぬ、此の短所がウタリー活動の各分野に悪影響を及ぼして遂に民族として自主自立するを得なかったと信ずるものである。
遠く将来を見透し事業計画を樹立して、気長く精励努力し多額の利益を受くるよりも、少くてもよい現実的に眼の前で利を得んとするやりかたである。
例えば淵に臨んで魚を得んとする場合、心ある士は徐ろに退いて網をすくが、ウタリーの場合は素裸にたって飛び込み、一匹でも二匹でも現実的に掴み獲ろうと言ったやり方は既往のウ夕リーにまゝあった。
明治政府の樹立した勤農政策が余り香ばしい成果を挙げ得なかった所以も其の一因は此に存する。
春に種を蒔き害虫と闘ひ、雑草と闘ひ天候に患ひされつゝ炎天の下、尻を天に向けてコツコツとして半歳有余の苦行を続けねばならない農耕の業は従来のウタリーの性格と相当の距離があった事を否めない。
こんな気長い辛抱強い仕事をするよりも現実的に今日言って今日現金を掴める仕事を求めて走るその間に畑は草に埋まる。
此の欠陥はウタリーをして経済的基礎を薄弱たらしめ、いつ迄経っても其の日暮しの水準に低迷せしめて来た。
今日言って今日現金になる仕事は所詮は日雇労働以外にはない。
諸子はよろしく今後此の短気を改めて、気長い辛抱強い精神を涵養し、遠く将来を見透して、一路コツコツとして牛歩の歩みを続け、素志一貫必や既定の計画を完成するの覚悟を定められたい。
計画と実行、苦難と辛抱此の努力を払わざる限り、いつの日も晴れた天日を仰ぐ事は出来ない。
美田良甫と雖も播かざる種は生えない。
諸子は自分の家の屋根に火が燃え付いてから火防井戸を掘ると言ったやり方をした事はないか、例えば先頃公布された農革法の如きも、自分の土地が買収されて、他人の手に移り、他人が耕作に取りかゝったのを見て、周章狼狽、あたふたと走り廻ると言った事例はなかったか? 自分のあり方、自分の家の切り廻しについては、自分以外に責任者はない。
故に自分の進むべき道、自分の家の切廻しについては自己自身が、判然とした認識と将来への見透しがついていなければたらぬ、判然とした見透しの下に事前に於て之に備えなければならぬ。
夏に於いて冬の準備を想い、冬に於て夏の準備に備える。
是なくては自己の家計を充実し、社会的地位を高め、民主国の国民として世に処するを得まい。
神経の線が太いと言えば聞えがよいが、何の備えなくして只慢然と噴火山上に舞踊するが如きは今後断然排除しなければならぬ。
ウタリーよ先ず自分の智識を磨け、常識を涵養せよ、而して自己の脚下を知り、社会を知り、自己の進路について確実な先見の明を開け。
先見の明の源泉は、智識に宿る。
高邁豊富な思想信念が養はれなければ透徹した先見の明は開かれぬ。
その知識の泉は唯一教育の力に依って培養される。
是本會がその事業概目の冐頭に教育の高度化を標傍せる所以も偏へに茲に存する。
宜しく諸子は今後本會を中心として、各自己を陶冶訓練し、自己の職業を確立し、家を齊へ、自己の地位を高め、自己の生活程度を高め、社会の各層に出入して、社会的訓練を積み、今後民主々義国家の国民として、自他共に許し得る社会人たらん事を要望する。
本會は諸君の団体である、本會が所期の目的を達成し得るか否かは偏へに諸君の双肩に懸っている。
自己の家庭を想う集持を以て本會の運営に協力を致し、而して以て本會の経済的基礎を確立し、事業遂行に遺憾なきを期されたい。
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小川佐助/常任理事「アイヌ協會存立の趣旨と使命」
『北の光』, 創刊号, 1948. pp.6-10.
北海道アイヌ協会『アイヌ史 協会活動史編』, 1994. pp.192-196.
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弱少民族と言われた私共でも、結束して、団結して、立上ったならば、道は遠く共けわしく共、彼岸には必ず光明が輝いて居ります。
求める光明に到達する迄で、例え何十年かかろう共、我々の子の代でも孫の代でも良い、必らず必らず文化も経済も一般和人と其水準が平衡する迄で、向上しようではありませんか。
そしてもっともっと先きの、大きい明るい光明を求めて進み続けようではありませんか。
道ももっともっと遠く共けわしく共、例え何百年かかろう共、私共の孫の代でも曾孫の代でも良い、文化も経済も、世界文明人に伍するまで、向上しようではありませんか。
其域に到達したならば、其社会には、人種差別も圧迫も絶対に無い筈です、我々の孫の時代でも曾孫の時代でもよい、人種差別がなくなって、社会的圧迫が無くなったら、どれ程明朗でせう、我々の孫が曾孫が、学校へ行って勉強するにも、どんなに楽しいことでせう、遠足の時でも修学旅行の時でも、仲良く仲間へ入れてもらへたら、どんなに楽しいことでせう、仕事だって、明朗でさへあったら、どんたに能率が上ることでせう、考えて見た丈けでも愉快ではありませんか。
人道に則した愛の実践こそ、如何に人智が発達しよう共人類が存続する限り、精榊文化の最高峰を行く、永久不滅の最も尊いものであることを堅く堅く信じつつ、アイヌ協會の団結の下に、強いウタリーも弱いウタリーも、お互ひが手に手をとり合って、道は遠く共けわしく共、彼岸の光明に到達するまで、努力を続けようではありませんか。
兄よ姉よ、弟よ妹よ、団結して結束して、勇敢に雄々しく、立ち上ろうではありませんか。
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